選挙戦中の言葉としては群を抜くクォリティーの高さ? | |
[日本の政治] | |
2019年7月20日 2時33分の記事 | |
選挙での候補者というのは、選挙前から同じ演説を何百回と繰り返します。演説を聞く聴衆にとっては、初めて聴く演説でも、話している方は何百回と話してきた中の1回なのです。そのような延々と繰り返してきた話しを、初めて聴く人々にいかに新鮮に話すことができるかという能力は、政治家として重要な要素になります。ただ演説は何度もしていれば、普通はうまくなるものですし、1回ごとに内容を考えながら話しているわけではないので、新人でも慣れてくれば途切れることなく話しが次から次へと出てきます。話す内容は、全体を3つ〜5つくらいのブロックに分けて、各ブロックごとに政策やトピックを割り当てて話しをまとめて、それを状況に応じて組み合わせて話すというのが一般的でしょう。そういうプロセスでできあがる政治家の発言というのは、考えるより話すことに力点が置かれるので、内容が話す度に進化することは希で、陳腐化することもよくあります。しかし、演説や発言を繰り返ししていると、なぜか説得力や迫力、自信が出てきて、中身がなくても、またトンデモナイことをいっていても、人々を惹きつける要素が生まれます。しばしば言語明瞭、意味不明ということが起きるわけですが、そうなると演説はもはや一種の音楽のようになるわけです。 参議院選挙戦も終盤になり、全国各地でこれまで言語明瞭、意味不明というような演説や発言が数々、繰り広げられてきたと思いますが、今回の選挙において異彩を放ち、群を抜いて質の高い発言がありました。 「立憲が国民に『刺客』=官邸参戦で対立激化−静岡【注目区を行く】」(2019年7月11日 時事通信) 「徳川宗家『第19代目』が参院選に出馬 自民党ではなく立憲民主党を選んだ理由」(2019年6月13日 デイリー新潮)
誰の発言かというと、徳川家広氏の発言です。その発言はやはり他とはレベルが全く違い、歴史的資料にもなりうるものでした。歴史的資料にもなるような発言をするのですから、当然、そのことに裏打ちされた歴史観は極めてしっかりとして、歴史の流れと現在の位置づけ・分析が発言において的確になされています。家系に裏打ちされた政治哲学もとても深いものがあり、さすがだなと思うレベルですが、“うーん”とうならせるその発言は、選挙中のものとしては私にとってこれまでで最高のものです。そんな発言のいくつかを記事から拾ってみましょう。 まず、憲法について非常に質の高い発言をされています。7月11日の時事通信では以下のような発言があります。 家広は曽祖父の家正が最後の貴族院議長として現憲法制定に関わったことに触れ、「(家正は)これで恒久平和の礎が築かれた、といっている。今ほど日本の憲法、戦後の平和が危機にさらされている時はない」と強調。憲法9条の改正を目指す安倍政権への対決姿勢を鮮明にした。 「立憲が国民に『刺客』=官邸参戦で対立激化−静岡【注目区を行く】」(2019年7月11日 時事通信) 貴族院議長で現憲法制定に関わった家広氏の曽祖父・家正氏が、現憲法制定で恒久平和の礎が築かれたと述べているということは、極めて重要な意味と歴史的価値を持っています。この言葉をみて、終戦への舵をとった鈴木貫太郎元首相が死の直前、「永遠の平和」と二度、はっきりと述べたということを思い出します。この家正氏と鈴木氏の二つの言葉には、当時の人々の平和への切望・希求が見事に現われていますし、その切なる心情と信条が現憲法の背景・主柱となっていることがよくわかります。 日本から仕掛けた戦争で、日本人だけでも数百万人が犠牲になり、都市は廃墟となり、完膚なきまでに打ちのめされて敗北した当時の人々が、恒久平和を希求するのは当然でしょう。むしろ、そうならなければおかしいとすら思います。 昭和20年9月4日の第88回帝国議会開会式で、昭和天皇は「平和國家を確立して人類の文化に寄與(きよ)せむ」と平和国家確立(建設)の詔を出されその後、上皇陛下が昭和21年元旦に書き初めで「平和国家建設」(以下リンク、画像)と書かれて、その流れは現在にまで至るわけです。まさにこの昭和天皇の平和国家確立(建設)の詔から日本の戦後が始まり、上記の二つの言葉があることを見れば、当時の人々が一致して平和憲法を作り上げていき、それが今日まで至ることがよくわかります。 「『平和国家』国内外へ訴え 戦争責任を意識か 天皇勅語」(2017年1月4日 朝日新聞) そして、何よりも忘れてはならないは、平和を心から希求した先達は、戦争に関わり・苛まれ、現在の日本人より圧倒的に戦争について知る人々であったということです。その先人達が平和を希求して作り上げた平和憲法というのは、まさにリアリズムの発露であるのです。最近、平和である日本を平和ボケと揶揄する人たちがいますが、そのような人々には全くないリアリズムがそこにはあるわけです。言い換えれば、平和ボケと揶揄する人々こそ、実は戦争を空想・美化するファンタジーにはまる平和ボケであるということです。 このような戦後日本の出発点を何よりも物語り、裏づける有力な証左が上述の徳川家広氏の言葉であるわけです。これは本当にすごいことです。 「選挙戦中の言葉としては群を抜くクォリティーの高さ?」(2019年7月20日)へ続く。 | |
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