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薩摩いろは歌  幕末編19 藩政改革 (無料公開)
[【時代小説発掘】]
2013年6月2日 18時59分の記事


【時代小説発掘】
薩摩いろは歌  幕末編19 藩政改革
古賀宣子



(時代小説発掘というコーナーができた経緯)


梗概・藩政改革
 武術・学問・航海術など意識変革を迫られたのは薩摩も例外ではない。その間に池田屋事件・禁門の変と、京都の情勢を伝える書簡が届く。そして母ふく子の死が・・。
 

作者プロフィール:
ひっそり年金暮らしの老夫婦。


これまでの作品:
薩摩いろは歌 幕末編1 口上
薩摩いろは歌 幕末編2 率兵上京に向けて
薩摩いろは歌 幕末編3 時に到りて涼しかるべし
薩摩いろは歌 幕末編4 久光入京
薩摩いろは歌 幕末編5 寺田屋事件 
薩摩いろは歌 幕末編6 舞台裏  
薩摩いろは歌 幕末編7 勅使東下
薩摩いろは歌 幕末編8 無明の酒
薩摩いろは歌 幕末編9 極密献策
薩摩いろは歌 幕末編10 外交初陣
薩摩いろは歌 幕末編11 中川宮朝彦親王
薩摩いろは歌 幕末編12  戦端
薩摩いろは歌 幕末編13 戦禍
薩摩いろは歌 幕末編14 八月十八日政変
薩摩いろは歌 幕末編15 生麦事件の総括
薩摩いろは歌 幕末編16 西郷召還
薩摩いろは歌 幕末編17 元治国是会議
薩摩いろは歌  幕末編18  長州藩処分問題


                  
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【時代小説発掘】
薩摩いろは歌  幕末編19 藩政改革
古賀宣子



一 母ふく子

「ご無事のお帰り、おめでとうございます」
 迎える満寿子の声が、言葉とは裏腹に沈んでいる。
 元治元年五月八日の夕刻、門口で目にしたサツキの桃色がかった赤も、くすみそうな暗さだ。
「いかがした」
「母上様が」
 満寿子は奥へ視線を向けた。
 春頃から体調がすぐれず、最近は寝込むことが多くなったという。
 身長の伸びた正太が抱えてきた桶で、洗った足を手早く拭くと、そのまま隠居所へ。が、襖を開けるなり、一蔵は束の間、歩を止めた。帰宅の気配に気づいたのか、母は身を起して襟元を整えている。八か月振りに見る母は一回り、いや二まわりも縮んだろうか。艶のあった肌はどす黒く、頭髪は薄くなり、ほとんど白髪だ。
「只今もどりました」
 両手をついたが、その先が続かない。
 体調を気遣う言葉も虚しく響くようで、一蔵は黙って薄い背中に手をあて、首筋をそっと枕にのせた。息子の労わりに、母は精一杯の頬笑みをかえす。
 平服に着替えた一蔵に満寿子が茶を入れてきた。
「昨年、出立した際は、あれ程ではなかったが」
 母はまだ起きて食事をし、縁側で嘉介を相手に語らっていた。
「ですが、食事の量は徐々に」
 六歳になった彦熊や四歳の伸熊に、分け与えながら残さぬよう心がけていたという。
「初めは食欲旺盛になってきた彦熊に喜んでのことでは、と思っておりました」
「以前はよく癪が起きておったのう」
 多忙にかまけてそれすらも忘れていたのを一蔵は恥じた。恐らく嘉介が満寿子や平吉に、処置の仕方を伝えてくれていたに違いない。
「お医者様は不治の病と」
「吉之助の御父上様と同じだ」
 父親を気遣う吉之助の暗い声音が、一蔵の耳底に甦る。
「飯の量が激減している。茶碗半杯を食うか食わぬか・・」
 ここに、しこりがと、吉之助は鳩尾に手をあてたのだった。
「平吉を」
 茶を飲み干すと一蔵は満寿子に命じた。
「母上のことが気がかりだか、明日から太守様を補佐して国力の培養に努めねばならぬゆえ」
 久光は数日中には指宿の温泉に向かうはずだ。
「心得ておいもす。嘉介叔父からの指示もありまして」
「とこいで、平吉はジョン=マンちゅう名を聞いたこたぁあうか」
「土州の漁師で、子供のころ遭難して、米国船に助けられた人じゃなかですか」
「そん通いだ。長く米国に滞留して教育を受けてきた」
「忘れもしません。おいが大久保家に来た翌年です。一蔵様はまだ謹慎中で、西郷様がよくお見えになっていろいろと話しこんでおられた頃でした」
「襲封まもない順聖院様が入国なさったばかいじゃったのう。帰朝して最初に上陸したのが薩摩じゃった」
 薩摩藩はジョン=マンこと万次郎を幕府に届け、長崎に護送した。が、内実は、西洋事情に関心の深い斉彬は、海外の状況を聴くなどし、万次郎を手厚く優遇している。
「いまや中浜万次郎と申して、幕臣だ」
「ひょっとして、そんお方が、薩摩藩へ」
「鋭いぞ、平吉」
 ちょうどそこへ、勝手の方から満寿子の声が。
「平吉、嘉介が呼んでおいもすど。終わい次第裏庭に」

 藩政改革については、在京時から久光のもとで小松帯刀等と話しあってきており、一蔵は次々と着手していった。
 先ずは江川太郎左衛門組御鉄砲手附中浜万次郎招聘である。
 蒸気船運用方その外教授のため三カ年間御貸人奉願候様達て申越候。
 江戸藩邸には、その旨の通達が届いているはずだ。ただちに留守居役新納嘉藤次が幕府と交渉するであろう。
 また幕府は神戸村に、軍艦奉行勝安房守による海軍操練所を既に設置していたが、五月に入り、京坂奈良堺伏見に住居の御旗本御家人子弟は勿論、四国九州中国迄諸藩士の入所を許可。そのため一蔵は希望者を募り、学生の選抜に着手する手はずになっている。それは砲術研究も同様で、間もなく江戸の江川塾へ、大山弥助(巌)や黒田了介(清隆)などの留学を実施した。


二 村田勇右衛門

 留学生派遣はそれほど難しくはないが、問題は長年保たれてきた流派を、新技術を要する西洋流にいかにして変えていくかだ。
 その一つが鉄砲である。従来、師範家と唱え、各一方に割拠する者多く、旧式の砲術は非常に盛大だ。主だった者は、種子島流、稲留流、荻野流、天山流などである。中でも最も勢力があるのが荻野流と天山流で、その門弟には有為の士が頗る多い。それゆえ、旧式の和銃を廃棄して新式を採用させることは実に至難の問題である。
 一通の建白書が一蔵のもとに届いたのは、ちょうどそんな折りだった。認めたのは、明治期になって村田銃を完成させた村田勇右衛門である。
 そこには、武器の独立を期し、元込軍銃を製造せんと欲し、苦心焦慮してきたが、ほぼその考案が熟してきたので建白するに至ったことが記されていた。
 早速、一蔵は村田勇右衛門の意見を聞き、感ずるところがあって大いに賛成。すぐにその建白書を携えて、温泉から戻った久光に謁し、先ずは完成度の高い銃を目指しての試作品造りを進めてみてはどうかと説いた。まだその段階では、成功の確信はなかったが、何事も一歩を踏み出さねば動かない。
「火縄銃より操作は簡略のようですし、誰もが扱い易く、それだけ戦闘にも耐えうるのでは」
 これを聞いて久光は大いに喜び、直に村田勇右衛門を引見することになった。
 武術から武器への転換である。それこそが一般化につながる。各流派が培ってきた技術が実用へと向けられていく。長年の苦心と努力で得た結論が、ほとばしるように村田勇右衛門の口から流れ出て、採用の運びとなった。が、和銃の流派が多い現状から、議論が沸騰することを恐れ、藩庁からの出資を避けて手許金よりの支出に決定。
初めて大門口砲台の脇に御試元込製銃所を建設し、遂に一挺の元込銃を製造。これこそが村田銃の端緒である。
 さて、この元込銃の真価を各流派に納得させるにはどうするか。同様に村田の建言が生かされた。情熱を持った者の意見は強い。
 それは天保山に在る練兵場に各砲術師範家を招集して、村田の元込銃と比較試撃させることであった。その結果は・・。
 新銃はよく鉄板を貫通したが、旧式の弾丸は悉く鉄板前に墜落し、遠距離に至っては、着弾するものもない。師範の一人はこれに憤慨して試撃数回に及んだが、遂に貫通することはなかった。
 この結果に、村田勇右衛門はすぐに砲術改正の命令を公布することを求めた。が、一蔵はその必要はないと諭す。
 諸流の師範家といえども、君主より深い保護があるわけではない。それぞれ私財をなげうち、国家のために奮励する者たちなれば、この結果に鑑みて必ず改良するであろう。あまり追窮するが如きはよくない。
「日新公いろは歌にもあるではないか」

 やはらぐと怒るをいはば弓と筆
            鳥に ふたつのつばさとを知れ


「上にたつ者はあまい優しゅては部下に嘗められう。そいどん厳格過ぎても蔭口をたたかれう」
「二面を上手く使い分けよちゅうこっなあ」
「そん通いだ」
 鳥に二つの翼があるように、優しさと厳しさを上手く使いわける人が、人を動かすと日新公は説いている。       
 果たして流れは教えの通りになり、師範家等も新銃の精鋭なることを認めるようになっていった。
 この機を逸してはならぬ。
 早速一蔵は村田勇右衛門の建言を容れ、更に各師範家の子弟やそのほか俊秀の士を、藩命を以て長崎や江戸へ留学させた。
 また天山流の高弟である中江八左衛門と荻野流の高弟大橋喜右衛門の両士が村田の製造所を訪ねてきたのもこの頃である。二人は従来の謬見を謝して、指導を求めてきた。初めこそ疑っていた村田勇右衛門だったが、二人がその道に熱心であることに感激し、共に研究するようになる。
 製造所はその後、塩屋村の荻野流銃砲製造所を廃して、その跡に移転。更に磯の集成館への合併が決まったが、その発展を見ぬうちに戊辰戦争がはじまり、中断の憂き目にあう。が、村田勇右衛門の軍器の独立、小銃発明の意思は一日たりとも脳裡からはなれず、遂に一挺の元込軍銃の完成へと至っていく。
 また剣術も同様で、各師範家が多数の門弟を有し、流派を立てて互いに相割拠していた。従って武芸の修練は全くその派内に限られ、各派の間でその技を試みることがなかったようだ。
 これでは徒にその形式に陥るばかりで実戦に益するところはない。
そこで各師範家に、門弟を率いて広場に集合するよう達しが出された。城西新照院町に川井田屋敷という広場があり、これを試合所に充て、各派をして互いにその技をたださせたのだ。従来ただ伝来の形式により、我流を以て誇っていた者たちも、今や彼我の長短優劣を目撃し、翻然として悟るところがあったようだ。これにより、割拠の弊風は大いに改まり、互いにその技を練習するに至った。
 一方、欧州の知識を求め、これを我が国に応用するべく建言し、開成所を建設。蘭学者八木元悦、英学者石河確太郎を招聘し、入学生には蘭英語の初歩より教授を始めた。さらに学生十名を選抜し、英国留学させることを決定。その監督として、家老新納刑部に、学長に若年寄町田久成を、ともに洋行の志があるのを以て務めさせることになった。そして薩英戦争後、熊谷駅に潜居していた松木弘安と五代才助が留学生等を率いて、串木野羽島より西航したのは、翌慶応元年三月二十二日。英国到着は同年五月二十八日になる。


三 禁裏御守護一筋

 元治元年六月五日の池田屋事件の報が届いたのは六月半ば。
「やはり」
 それが一蔵の第一声だった。
 というのは、それ以前に家老喜入摂津に宛てた小松帯刀の手紙で、京都情勢が伝えられていたからである。一蔵はそれを簡潔にまとめた紙片を携帯していた。
? 長州藩士や浮浪の輩が横行し、京・伏見に入りこんでいるが、その数は人足類まで含めて一千名ほど。
? 三条実美などの脱走公家と長州藩世子毛利広封(定広)が大兵を率いて上京との噂あり。
? 彼等の目的は朝彦親王、近衛父子、松平容保、松平春嶽、島津久光等を「追ヒ退ケ」なくては「攘夷鎖港」を実現できないという「主意」である。
? 毛利広封は兵威をもって脅し「主上ヲスカシ出シ」どこかへ「御幸」させようと企てがあるようにも聞こえている。
? 久光が帰国する際に命じたように、我々は「禁闕ノ御守護」に専心する。
? 長州勢が二〇〇〇や三〇〇〇の人数で上京してきても、決して思い通りにはさせない。天皇を奪われるようなことは、薩摩藩一手だけでも阻止すると、朝彦親王や近衛家には断然と申上げてある等々。
 一蔵は在京兵士の総人数をざっと勘定してみる。
 薩摩藩兵およそ五〇〇。禁裏守衛総督一橋慶喜の配下の兵(雑兵も含む)が約八〇〇で、京都守護職松平容保配下の会津藩兵が約一五〇〇である。このほか相当数の大名が在京しているようだが、小松帯刀によれば、それらは皆「風並ヲ見」ている大名で、あてにならないと。
 間もなく西郷吉之助から一蔵あてに、六月八日付の手紙が届いた。そこには、薩摩藩は確固として動かず「禁裏御守護を一筋」に守るつもりであるが、京都が戦場となった場合は「早打を以御注進」すると綴られている。
 薩摩藩の基本姿勢は「禁裏守衛」を最重要課題とするもので、それはもともと順聖院(斉彬)の遺志でもあり、藩是であった。
 一蔵は以後、書状によって京都情勢を把握していく。
 六月二十四日、長州勢が伏見と山崎に到着。これにより幕府(所司代)から薩摩藩京都留守居役が呼び出される。護衛のため淀へ藩兵を派遣するようとの達しだ。が、小松帯刀と西郷吉之助は即刻書面で断わった。
 吉之助は二十六日付の書状で、その理由を次のように綴っている。
 この度の戦争は長州と会津の「私闘」であるから「無名の軍」を動かす場合ではないと判断し、「禁裏御守護一筋」に努めたい。長州藩は「外夷の襲来(四国連合艦隊)」を待ち、そのうえ京都に出軍では、実に「死地に陥り候窮闘」ともいうべきもので、大敗北の結果となることも考えられる。長州藩に対しては「旧怨」もあるけれども、長州藩の窮状を僥倖として兵を動かすことは「無名の軍」にも等しいものであるから「断然」と出兵を断った。
 六月二十六日から二十七日にかけて、長州藩勢力(京都に潜伏していた浪士を含む)は、嵯峨の天竜寺、山崎、石清水社一帯に集結・布陣。ここに至って京都西南の要害地が、長州藩勢力の占領するところとなった。
 二十七日には、御所の九門が閉鎖されて、在京諸藩が九門警備に動員され、薩摩藩も乾御門に人数を派遣した。ここでついに小松帯刀と西郷吉之助は、戦争は避けられないと判断し、「征討之勅」が下った場合は、長州藩と戦うほかはないと決断。鹿児島藩庁に、藩兵の至急の派遣を求め、藩兵輸送のための翔鳳丸を、大坂港から鹿児島に向かわせたのであった。
 小松帯刀と西郷吉之助が戦争を決断したのは、長州藩勢力が兵威
をもって朝廷に圧力をかけ、朝廷を前年八月十八日政変以前の状態に引き戻そうとしていると判断したからだ。有栖川宮や正親町実徳をたぶらかし、政変以前の叡慮こそが真の叡慮であり、政変以後の叡慮は、すべて「偽謀」のものであると・・。
 また朝廷内の公家も、そうした長州藩の主張に動かされ、西郷によれば、公家の半数が長州藩に同意しているらしいと。ここでもし長州藩の主張が通ってしまったら、薩摩藩は「大一番ニ打崩サレル」ことになる。一蔵は小松帯刀と西郷吉之助の危機感を相当強く感じ取った。
 そこまで腹を決めながらも、二人は出兵には慎重であったようだ。
禁裏守衛総督一橋慶喜に小松帯刀が呼ばれたのは七月一日。そこで慶喜から丁寧な依頼があった。
「伏見の長州藩家老福原越後に、退去するようにとの朝命を伝えて説得を試みるが」
 承知しなかった場合は「誅伐」のつもりであるから、薩摩藩からは応援の人数を派遣してもらえないかと。
 しかし小松帯刀はここでも、藩兵は「禁裏護衛」のために在京させているから、一橋慶喜からの依頼であっても、藩兵の派遣はできないと断る。
「しかし、長州藩征討の朝命が出された場合は、藩兵を動かす」
 そう明言して、慶喜との話を終えたという。
 薩摩藩在京首脳部が慎重論を取り続けていたのは、朝廷の態度が今一つはっきりしなかった点とそれに関連して、慶喜の姿勢にも確固としたものがなかったからである。また在京諸藩の動向も流動的であると見ていたようだ。


四 薩摩藩周旋

 六月二十七日、天皇は次のような内勅を関白二条斉敬と議奏、武家伝奏に示した。薩摩藩は近衛家を通じてそれを知ることになる。
 そこには、八月十八日の政変は自分の意志であったこと、親征大和行幸は行う意志がなかったこと、政変における松平容保の忠誠には「感悦」していること、そして「長州人入京」は不可であることが記されていた。
 これは長州藩の主張と行動を、天皇の言葉で、正面から否定したもの。小松帯刀は書状でそう述べている。
「天皇の意志は、きわめて明快だ」一蔵は独りごつ。
 一方、慶喜は同じ日の朝議の席で主張したという。
「嘆願に兵器を携えて上京するなどとは不届きな行為であり」
 早々に長州藩に引き取るよう命ずるべきである。万一長州藩に動かされて、毛利父子の入京を許すなら、自分と京都守護職の松平容保は辞職する。
 六月二十九日に、朝廷が慶喜に「禁裏守衛総督之辺ヲ以、諸事御任セ」と達したのは、このような事実を踏まえた上でのことという。そうであるならば、事は混乱なく収まりそうだが、実際はそうならなかった。
 先ず、金沢、熊本、福井、土佐などの有力藩が、慶喜から藩兵の派遣を要請されたが、いずれも断わっており、長州藩の説得を諸藩に命じたが、これも有力藩は積極的な動きを見せなかったという。
 それどころか、鳥取藩の呼びかけで、二本松、岡、大洲、宇都宮、新谷の六藩が、長州藩を支援する内容の建白書を行っていた。
 長州藩の「勤皇之志情」を褒賞し、「紛転之儀」は寛典に処して、「尊王攘夷之国是」に基づいた朝命を下したならば、「屯集之士」は雀躍して指示に従うであろう。その上で兵器を携えての「屯集」の罪を咎めてはどうか、と。
 七月九日付の書状で西郷吉之助は綴る。
 三日には正親町三条実愛が関白二条斉敬に、福原越後に入京を許して、長州藩兵を鎮静させるべきであると述べ、四日には大炊御門家信、庭田重胤、石山基文、五辻安仲らが長州藩の嘆願を受け入れるべきであると、関白に上書。
 またこのような動きを背景に、長州藩に「荷担」する堂上が、朝彦親王や近衛父子を刺すなどという噂が流され、朝彦親王と近衛父子はおびえていると。
 その様子は、一蔵には手にとるようにわかった。
 そして西郷吉之助の視線は手厳しい。
 朝彦親王と近衛忠房は、慶喜に任せておけば「後難」を免れると考えているだけで、「朝威」が振うか振わぬか、という点については、全く構わないとする姿勢だと。
 在京幕府勢力のなかにあって、一貫して強硬論を主張していたのが松平容保であり、慶喜も決して長州藩に同情する立場ではない。  
が、有力藩が形勢観望の姿勢が強く、朝廷内に於いても意見が割れて因循の姿勢では、妥協するにしろ強硬策にしろ、軽々しくは動けぬのであろう。一蔵は京都の実情をそのように読んだ。
 一方長州藩の陣営は益々強化され、七月十八日に真木和泉と入江九一の連名で、在京列藩への通告文が出された。そこには「国賊」である松平容保を「誅討」するために義兵を挙げる覚悟であると主張。文久三年の政変で、攘夷の国是が改められてしまったのは、松平容保らの「奸賊之所業」であったというのが、その理由だ。
 出兵要請の小松帯刀書状が、大坂からの翔鳳丸によって届けられるや、一蔵は藩庁に武器火薬(大砲、小銃、弾薬等)の手配を命じた。兵士四五〇人とともに、七月八日に蒸気船(翔鳳丸、胡蝶丸、安行丸)に搭載。十日に鹿児島港を発航した船団は、一五日に大坂にそろって着港したという。軍団の入京はその翌日になる。
 船団着港の報せを、その日のうちに受けた京都薩摩藩邸は、早速動きだす。
 先ずは一五日、京都三本木で薩摩、土佐、久留米、福井の諸藩士が集会。熊本藩士は参加しなかったが、征討の方針に異論がなく、藩主細川慶順も同様の趣旨を朝廷に建白したことを告げてきたという。この集会の後、同じ日に、薩摩藩士吉井幸輔、土佐藩士乾市郎平、久留米藩士大塚敬介が正親町三条実愛邸へ。長州藩への対応は「追討之外」ないとの言を実愛の家来に伝えた。諸藩が独自に動き出したのである。
 翌一六日には同じ場所で、薩摩藩が会主となって会合が持たれた。
薩摩藩からは家老小松帯刀、小納戸頭取西郷吉之助、吉井幸輔、海江田武次、奈良原喜左衛門、藤井良節、高崎猪太郎らが出席。土佐、福井、久留米、柳川の諸藩士と評議。
 その内容は、長州藩征討の方針で臨むこと、朝廷が速やかに長州藩征討を決断するよう働きかけるということで一致。会議の後、同じ一六日に、薩摩、土佐、久留米藩士が朝彦親王を訪れ、朝議で「速ニ御勇断」すべきであると告げる。彼等は中山忠能邸にも行ったが、面会できなかった。
 翌一七日にも、諸藩有志が会合。手分けして、山階宮晃親王、二条関白、近衛家、正親町三条等の公家、さらに一橋慶喜を訪問し、同様の働きかけを行った。在京有力藩が、長州征討の方向で固まったのであり、その中心となったのが薩摩藩だ。
 慶喜に、長州藩「討伐ノ勅命」を速やかに出すよう勧めたところ、
「この機会こそ待ちかねていた」
 早速、朝彦親王と晃親王、近衛父子と相談して天皇に奏上し、朝議を決すると答えたという。
「慶喜は有力藩の決意を確認して、ようやく決断できたようです」
 一蔵が久光に伝えると、久光は黙然として頷いただけであった。
 結果はわかっていた。そう言いたげに・・。


五 禁門の変

 慶喜はその日の夕刻、朝彦親王に告げたという。
 朝廷としての「断然之御処置」を望みますと。
 薩摩藩がこのように積極的に動いた背景には、戦闘集団として編成された藩兵の上京があったことと、有志諸藩の動向を掌握していたからだろう。この点については、昨年の八月十八日政変の際での情報収集の経験が大きな力となっていたようだ。
 慶喜が決断した同じ十七日。長州勢は男山で軍議を開き、洛中への進軍を決議していたことを薩摩藩は後で知ったという。掲げた名義は、京都守護職松平容保の討伐だ。
そして容保の罪状を列記し、容保の追放を求めた「陳情書」や「上書」が作られ、公家と在京武家の諸方に届けられたのだ。
 同じくこの日の夜、朝廷でも動きがあった。
 惣参内(宮、関白、大臣、議奏、武家伝奏、国事御用掛の公家および在京幕府首脳が参内)で朝議が開かれ、徹夜となった。ここで漸く長州藩に十八日中に退去するよう命ずることを決議。十八日昼前に、長州藩京都留守居役乃美織江を議奏六条有容邸に呼び出し、議奏、武家伝奏両役全員が出席して、最終的な撤兵の朝旨を伝えた。
 こうしたなかで、有栖川宮父子と大炊御門家信、中山忠能、橋本実麗ら「長州荷担」公家が突如参内。長州藩の「陳情書」をもとに、天皇に松平容保の洛外追放を主張するという事態に。
 そこで天皇は両宮(中川宮と山階宮)と二条関白、近衛忠房、徳大寺公純,九条道孝らの公家そして一橋慶喜に急遽参内を命じ、応援を求めた。八月十八日政変の経験が、この危急の場で生かされたのだ。
 朝廷では「長州荷担」の者と朝彦親王・関白ら「正論」家との議論が続いたが、最終的には慶喜の「奮発」により決着。ようやく「総督以下在京諸藩兵等尽力征伐、弥可輝朝権事」とする長州征討の勅が発せられた。が、この時御所にも砲声が届いており、すでに戦闘は始まっていたという。
       
 ここ二、三日は寝ていないと記した一蔵宛ての小松帯刀書状によると、戦況は次のようであった。
 十九日明け方、薩摩藩は藩兵を二手に分け、天竜寺と乾御門に派遣しようとしていたところ、中立売御門で砲声が聞こえ、会津警衛の蛤御門が破られて公家御門前まで長州方が押し寄せる勢いであった。こちらは大砲・小銃隊を押し出したところ、長州方は退いて日野邸へ逃込み、一部天竜寺の方へ逃げる者は奈良原組が討ち取った。
烏丸通で大きな戦いがあったが、西郷・伊地知らの働きで討ち取った。
 長州方は鷹司邸に大勢立て籠っていたところ、会津・彦根も奮戦して、過半は討ち取ったが大火になり、洛中は残らずというほど焼けた。久光の名代である二人、次男図書久治は陽明殿前、三男備後珍彦は日の御門内で警備に当たった。
 早朝からの戦いで四つ(午前十時)時には長州方は逃げ去ったが、市内潜伏の者もいる。今日は天竜寺討手を仰せ付かり自分が出張し、逃げた後で残った一人を召し捕ったが、火災になった。
「他藩に替り別段相働き、薩兵なくんば此節ぎりとの事の由と、今より手に汗を握り申す程の事に御座候」
 西郷も足に銃弾を受けたが、今日も天竜寺に出張した。
 朝廷では「暴論の堂上方」勢い甚だしく、中川宮・山階宮・近衛内府など「余程御心配」であったが、一橋公は「御動揺もこれ無く」、「戦の折は日御門前え出張にて自ら下知もこれ有り、余程の尽力」であった。
 また西郷吉之助も、七月二十日付で一蔵宛てに報告してきている。
長州一条については、長州藩に「荷担」の公家も多く「色々と議論紛々」となって、なかなか「追討之勅命」を出せなかった。しかし「色々手を尽し」て「勅命相下ル一段」となったところで「もふハ致方無之」とて、長州勢が出撃となったようだ。
 さらに戦闘の模様について吉之助は綴る。
 一昨晩(十八日)より、(長州勢が)人数繰出し、中立売より攻め登り、未明より戦争相始め候処、諸藩之御固場所も打ち破り、公家御門まで攻入り候処、此御方様(薩摩藩)一手を以て打ち破り追い退け、烏丸通より一手押し出し、大砲を以て互いに打合い、室町よりも一手繰出し攻め打ち候処、程無く退散いたし、鷹司家内へ逃込み、砲戦有之、又々崩かたく、此方より砲隊並びに二組の人数を以て打ち挫き、火攻めに及び候処、たまり兼ね、早々退去・・
 このように西郷吉之助は戦闘の模様を語り「薩兵にあらすんハ危き次第ニて御座候」と薩摩藩兵活躍の模様を報告してきた。
 禁門の変における戦闘は、蛤御門から公家御門のあたりが最も激戦になった地域で、薩摩藩兵の奮闘は事実、注目にあたいするものであったようだ。
 実は、これには背景がある。この年二月末に長州藩征討の内達(あとで取り消される)が届いて以来、鹿児島では、出兵のための軍団を組織。長州藩と戦うための軍事訓練を行い、臨戦態勢にあった藩兵が京都に派遣されていたのである。
 十九日昼頃に、討ち取った首実見が近衛邸門前で行われ、図書・備後が総大将で、脇に小松帯刀がおり、軍役奉行伊地知正治が指揮した。近衛邸は御所近くのため、実見の鬨の声に紫宸殿出御の天皇が、また「賊軍」が攻め寄せたかと驚いたという。


六 中浜万次郎

 海軍の政策で急がれていたのは、汽船増強・中浜万次郎招聘の外にもう一点ある。薩摩藩は軍事的な意味だけではなく、交易のためにも自前の「海軍力」強化を必要としていたが、長崎丸沈没による被害もあって、乗組員の不足に悩んでいた。
 そこで小松帯刀が目をつけたのが勝塾だった。海軍操練所の人材を薩摩海軍に活用できないかと。
 一蔵宛て十一月二十六日付の書状は、海舟罷免をまだ知らずに書かれていたが、それから間もなく勝安房守の軍艦奉行免職と幕府海軍操練所閉鎖を知ることになる。理由は池田屋事件との関係で、勝塾に脱藩浪人などがいることが幕閣によって問題視されるようになったからという。
 ともあれ、その書状で小松帯刀は、「神戸勝方え罷り居り候土州人、異船借用いたし航海」を企て、現在「坂元竜馬と申人関東え罷り下り借入」交渉中だと伝える。これが薩摩藩と坂本龍馬との最初の接点であ、翌年の龍馬ら訪鹿が実現する。
 そして、さらに次のように記している。高松太郎(龍馬の甥)に帰藩命令が出たが、帰藩すると身の危険があるので、関東から船がくるまで「潜居」させてほしいとの由。西郷とも相談のうえ、「右辺浪人躰の者を以て、航海の手先に召し仕い候法は宜しかるべしと・・大坂御屋敷え内々潜め置き申し候」
 また、一時幕府の翔鶴丸で機械方や火焚き水夫をしていたが、士官と争って兵庫に来ている者もいる。もし、関東での借船がうまくいかない場合は、「此方の御船にても召し乗せられ然るべしと相考え」ていると。
 一方これより少し前、一蔵は十一月十九日付小松帯刀の書状で、中浜万次郎が着京したことを知る。
 京見物を致したいと聞いたので、そのように取り計らい、一昨日十七日に出立したという。都合次第には土州に暫時立ち寄るとも。
 さてと、小松帯刀は続ける。
 中浜氏の趣意は、御国元へ着きました上は如何様とも御用向きを仰せ付けられる通りに相勤めたいとのことです。併せて航海は当人の得手であり、右稽古については、兎に角大洋航海いたさず候ては、とても稽古は出来ない。御国到着の上は、十分当人の存慮も建言致されるよう申し含めてある。最早この時世では、上海辺りに航海するより、アメリカ、英国等へ「直乗相成候」方が却って宜しいだろう。しかし只今早速の遠海航を急に行うのは難しいであろうから、ひとまず航海の稽古として、士官から水夫迄御人選の上、一船に召乗させて琉球まで試しに航海しては如何かと御座候や。しかし、征長相済み、御船帰帆の上ならでは、その儀も叶わぬ事とは存ずるが。その他、船の指定など意見が述べられている。
 そして・・。当人下着の上細々御質問され良策を行われるよう。緩々と話を承ったところ、余程外夷の情を相心得ており、その上航海術等も心得があり、この時世必要な人物に御座候・・。
 小松帯刀の書状を読みながら、幼い頃の情景が思い出された。 
 祖父皆吉鳳徳のことである。一蔵は祖父から船の話をよく聞かされており、我が国は海国にして、薩国は海国中の海国なりが口癖だった。 
 我が国の船は沿岸を回航するに過ぎず、遠く荒波を乗り越えての航海に堪えられるものではない。西洋諸国の船が万里の波濤を意に介せずわが沿岸に来航するのは、船舶が巨大なのによる。今後我が国に必要なものは、大船、巨船にして、その製造は実に国家経営の大本なり、と。
 製造については、その技術習得と経費両面から換算して、外国からの購入に方針転換したのは、既に斉彬の時で、現在は航海術習得に重きがおかれている。
 今やまさしく、祖父が描いていた世だ。蒸気船自体は珍しくなくなっているが、前髪のころに胸躍らせた思い、あの興奮をより確かなものとして感受させてくれる人との出会いが、間近に迫っている。

 実は是より三か月前の八月二十四日、天命は如何ともしがたく、母ふく子が六十二歳の人生を閉じた。
 死に臨み母は、一蔵に両石原及び山田家へ嫁いだ三人の妹達の行く末を懇願し、溘然(こうぜん)として逝った。
 西郷吉之助からの九月十五日付書状には・・・。
 御賢母サマ御養生不被為叶段、驚入仕合ニ御座候、追々承候処御難症之由ハ承候得共、例之御持病強キ方ニテ、肌持(気候)モ能罷成候付、追日御快方ト相考居候処、存外之次第、御愁傷之筈ト想像ヤル方ナキ事共ニ御座候、毎年ノ御不幸打続御悲心之処、私共サヘ難堪事ニ御座候、貴兄御旅中共ニテ無御座候カ、ヨカッタト是ノミ申居候・・
 一蔵の旅行中でなくてよかったと、これのみ申し候と、吉之助の書中にもある通り、昨年の父に続く母の死。両親を失った一蔵は、荒波に立ちはだかる大きな岩が消え失せたという感慨に、一家を支える責任を改めて痛感したのだった。



参考資料2(雌伏編以降の追加)記載洩れ
『忠義公史料』(四)
『玉里島津家史料』(五)
『続再夢紀事』日本史籍協会編(東京大学出版会)
『吉川経幹周旋記』(一)(二)(三)日本史籍協会編(東京大学出版会)
『保古飛呂比』佐々木高行著日本史籍協会編(東京大学出版会)
『岩倉具視』大久保利謙著(中央公論社)
『外交官の見た明治維新』上・下 アーネスト・サトウ著
坂田精一訳(岩波文庫)
『志士と官僚』佐々木克著(講談社学術文庫)
『坂本龍馬日記』上・下菊地明・山村竜也編(新人物往来社)
『ドキュメント生麦事件』浅海武夫著(生麦事件参考館)
『英国から見た薩英戦争』平間洋一著(生麦事件参考館)






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