曲学阿世の徒? | |
[日本の政治] | |
2017年6月18日 23時59分の記事 | |
知識の意味、学問の意味を忘れた社会は必ず滅びます。そして、そのようなことが生じているのが、現在の日本なのではないでしょうか?
曲学阿世の徒という言葉があります。この言葉はご存じの通り、学問上の真理を曲げて権力者や世間に取り入るような言動する者という意味です。このことに反対の者は、学問・知識の真理を世のため、万民のために生かす人ということです。そして、これが学問・知識のあるべき姿で、それに携わる人間の本来の姿勢であるわけです。 歴史学というのがあります。歴史学は社会科学の根本です。この歴史学があるから、社会の法則性、人間の法則性を見いだすことが出来るわけであって、その反対はあり得ません。法則があって歴史があるということはないのですが、このような思考は必ず現実を歪める結果となり、社会を傷つけ多くの犠牲をもたらします。それはその本質が革命理論であり、同様の意味での復古主義なのです。 科学というのは現象を追って、その法則性・抽象性を見いだすことですから、その法則性を見いだすには、社会の歩みや人間の歩みという歴史に眼を向けるしかないのです。 歴史学というのは、科学だけではなく、三大宗教と言われるような古来からの宗教の基礎でもあります。聖書などを読めばわかりますが、それは人間や社会の歴史を考察したものです。その本質は、その歴史から教訓を導き出すということであり、これは明らかに歴史学なのです。社会が安寧に平和に営まれるためには、過去の失敗とその教訓を学び伝えていくということがどうしても不可欠であり、それは太古の昔から人間社会を営ませるために欠くことのできない思考の営みなのです。 歴史学の要諦、社会科学の要諦はここにあり、その意味は時空を超えます。だから、これまで人類は歩みを続けてくることができたということなのです。 安倍政権などで問題となっている“歴史修正主義”とは、まさに歴史の教訓をなきものにするものです。それは言うまでもなく“曲学”であるわけですが、歴史というものを軽く扱うと、必ず社会は崩壊していきます。それは、人間の社会はいつの時代も同じ間違いを犯す危険性があるからで、歴史の教訓を忘れれば必然、過去の陥穽に陥ることになるということなのです。過去の失敗から目を背けて一時の快楽にふけることは、未来において破滅に至り苦痛にさいなまれると言うことでなのです。歴史学の精度は社会の命運を握っているのです。このことは絶対に忘れてはいけないことです。 この曲学阿世という言葉は、司馬遷の史記からのものです。まさに歴史の教訓として、この言葉があるわけで、西暦紀元前の太古から曲学阿世の徒という悪しき人間像が跋扈し、それが社会に重大な問題を引き起こす害悪と考えられていたわけです。そして、このことが“曲学阿世の徒”という言葉となり、同時に現在も時空を超えて通用するわけです。 才能ある人を英語ではGiftedと言います。天から授かった能力と言うことですが、その才能を万民のために使わず、私利と保身のために使うのが曲学阿世の徒ということでしょう。 ただ、得た知識や才能を万民のために使わず、自分のために使うという時点で、実は才能として問題があるので、天から授かっている才能の持ち主というわけではないということです。そのような者が学識経験者や有識者を語り、跋扈し、知識・学問が曲学されれば人の世は当然、曲がり、いずれ滅びるのは理でしょう。 これが政治家なら佞臣(主君におもねり、心の不正な臣下)という言葉になるわけです。また昨今の日本を見渡せば、このような私利と保身をするジャーナリストが問題となっていますが、そのようなものを表現する言葉がないのが残念なところです。ただ、いずれにせよその心根・本質は同じなのです。 古来から人間の悪しき心根は常に問題視され、社会を乱してきたからこそ、これらのような言葉があり、一種戒めになっているわけです。そう考えると今や世間を見渡せば、曲学阿世の徒と佞臣が跋扈していると思うのは私だけではないでしょう。そして、この戒めが忘れられたり、社会のモラルが低下するとこのような破滅的なことが起こるのでしょう。 一般的に人間は、学問や知識というもの、または権威や肩書きに非常に弱いものです。そういうものをちらつかされると無条件で信じてしまうわけで、人間の弱さ、性であるわけです。曲学阿世の徒というのはそういう人間の弱さにつけ込んで、私利や保身に走るわけですが、一方でそのようなことを許してしまう素地もまたあるわけです。そして、そのようなものが高じると曲学が跋扈し社会はやはり崩壊に向かってひた走るわけで、盲進や考えないことの怖さというものがやはりあるわけです。 これは今の日本の怖さのもう一つの面でしょう。テレビのコメンテーターというのも、一種の権威付けとして存在しているわけで、それが常態化しています。全てが悪いというわけではないですが、そういうところに曲学阿世の徒が入り込む隙間があるわけです。このことは厳に気をつける必要があります。 知識というのは、人間の思考の営みの蓄積で、その蓄積の上に現在があります。これは万民にとってあまねく通じることであって、だからこそ、知識は人類の、社会の共有財産であるわけです。そして、この財産が共有されているからこそ、現在の知識というのは成立しているわけです。今を生きる者が、現在の知識を確立したわけではないのです。 したがって、例え学問上などの個人の発見であっても、これまでの蓄積の賜物であるということは言うまでもありません。そのような個人の発見は、もちろん評価されるべきですが、やはり共有財産としての性格はあるわけで、そのようなものを万民と社会の現在と未来に生かしていくというのが、知識の本来の意味なのです。知識人や知識に携わる者の姿勢というのは、実はここにあり、曲学阿世の徒というのは、この知識を自分の保身や利得のために使うと言うことなのです。 この知識の本来の意味は、実は“言葉”も同じで、言葉というのは現在を生きている人々がつくったものではなく、はるか昔からの人間の営みで形づくられたものがベースであるわけです。だから、言葉は文化そのものなのですが、この言葉に対する姿勢というのは、やはり社会や文化、そして何よりも人々に対する姿勢を示します。 「曲学阿世の徒?」(2017年6月19日)へ続く。 最終編集日時:2017年6月20日 2時47分 | |
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