《日本の政治》 日本国民の命にもっと敏感な政治を | |
[日本の政治] | |
2022年2月24日 17時32分の記事 | |
2月22日発表の全国の新型コロナウイルス犠牲者が322人となり、これまでで最悪となりました。明白なのは、キシダ自民党政権をはじめ地方自治体などの日本の行政の完全なる失敗であることです。『オミクロン株の特性に合わせた施策』の結果、犠牲者が最多となっているのですから、その施策は完全に失敗したと言うことにすぎません。当然、責任問題。必然、キシダ政権をはじめ、政府の『有識者』なる者もここで一度きっちりと責任をとらせるべきです。そういう責任に対してあまりにも弛緩しすぎています。『水は低きに流れ、人は易きに流れる』ものです。政治家・責任者の自己保身は古来より最低の悪弊ですが、それを放っておけば社会は麻痺し、崩壊していきます。その自己保身が際立っているのが、史上最長政権のアベ氏、そして大阪府・市の首長などでしょう。さらにキシダ氏もその仲間入りをしそうです。 「【国内感染】新型コロナ 最多322人死亡 6万9523人感染」(2022年2月22日 NHK) 「コロナ 死者数増加 “高齢者の感染減らず今後も増加のおそれ”」(2022年2月24日 NHK) 「新型コロナ 第6波の死者4000人近くに 去年夏の第5波を上回る」(2022年2月22日 NHK)
政府における新型コロナウイルス対策の『有識者』なる者の会議が、一体何なのかよくわかりません。アドバイザリーボードやら、分科会やら。またどういう構成になり、何が話し合われているかもよくわからない。責任の所在も極めて曖昧。そして、アドバイザリーボードと言いながら、新型コロナウイルス犠牲者が史上最悪を記録し、さらにどんどん増える一方。このようなことで『有識者』『アドバイザリーボード』と名乗らせていること自体問題ですし、さらにこの『有識者』なるものの責任の所在も明確ではありません。 こういうと日本は世界的に観て良いほうだとかなんだとかと自分でのたまう。そういうことを判断するのは本人ではなく国民であって、それが民主主義というもの。いつから日本人は自分の失敗を取り繕うことしか言わなくなったのか? 潔さがない、日本人らしくない。これはアベ政権からなのでしょうか? とにかく政府の専門家グループは、一元化・透明化して、責任をとらせる体制を構築すべきです。岡田晴恵さんなどを軸に再構成すべきではないでしょうか? そして、成果を上げればしっかりと国民的な評価を与える。失敗すれば責任をとらせる。現状はこの『有識者』なるものに対してあまりにも甘すぎます。日本政府、すなわち国民を背負う立場にあるものの責任は重い。そのことをしっかりと明確にすべきです。そして、成果を上げれば国民的な評価を与えれば良いわけです。 一方でそういう責任に耐えられない人は、入れるべきではありません。それが国民の命を背負う責任というものです。この重い責任に耐えられない人を集めると単なる無責任な体制ができあがるだけで、それでは国民の要求に応えることはできません。それが、新型コロナウイルスの犠牲者が最悪を記録したと言うことの国家的な意味なのです。 ◎ 人の死に対してあまりにも鈍感すぎる 地震や豪雨災害などの自然災害で、一日に322人もの方々が亡くなったら大変なことです。でも、世の中、まったく意に介していません。 2月に入って23日までに発表された新型コロナウイルスでの犠牲者は全国で3774人になります。自然災害や大規模な事故などでこれだけの方々が1ヶ月になくなったら歴史的な事象に確実になります。 しかし、まったくマスコミなどでは何事もなかったようにしています。政治家はまったく犠牲者を省みない。『遺憾におもう』と言葉は発するのですが対策は何もしていません。 自然災害や大規模な事故などの犠牲になることと、新型コロナウイルスによって犠牲になることとに、何か違いはあるのでしょうか? あるはずはないのです。 たとえば、津波から高齢者が逃げ遅れて、命を落とすことが生じたら心が痛みませんか? 痛みますよね。それなら新型コロナウイルスで高齢者が犠牲になるのも心が痛まないというのはおかしなことなのです。 明らかに現状は、社会において人の死に対して完全に無頓着、無感覚になっています。これは大変に危険なことで、社会において暗黙に人の死が肯定されている=殺人が肯定されているということになっているのです。 新型コロナウイルスは自然災害よりも人為的要素が強いものです。感染拡大を抑制する方向で動けば、感染は収束していきます。そして、そうすれば必然、犠牲者も減ります。 でも、感染を抑えないようにしているから、感染爆発となり、結果、犠牲者が増えるわけです。そして、その犠牲者の多くは弱い高齢者。この社会の構図を考えれば、この国の高齢者がいかにかわいそうな存在だとおもわないのでしょうか? そう思うのが『情』というものです。 実は今、人を思いやるこの『情』がなくなっているのです。当然、その結果は、今後、社会において大量の犠牲者=殺し合いが生じることを意味しています。それは社会の崩壊を意味します。今の若い人の将来性は実はないのです。このままでは。 現状の日常の風景は、居酒屋で飲食するときにマスクを外し、普通に楽しい会話をして、お店をでるときにおもむろにマスクを取り出してつけて、何事もなかったように街中を歩きはじめるというものと考えます。完全に形骸化しているのです。 そして、このような形骸化した行為の先に高齢者などの犠牲者が生まれているのです。しかし、自分の行為の結果は考えない、考えないようにしているだけなのです。それも社会的に。だから、現状、新型コロナウイルスの犠牲者が史上最悪を記録したということが意味することは、端的に社会的な殺人が平気で行なわれているということに過ぎないのです。モラルが完全に喪失しているのです。その生け贄になっているのが弱い立場の高齢者なのです。 これで『まん延防止等重点措置』をやっていますと言っても、それは何もしていないのと同義なのです。 ◎ 大阪の将来はない 以下のリテラの記事「大阪死者激増のなか吉村知事が読売TVのバラエティに40分出演、『死者は高齢者』と主張した上ハイヒールら芸人とはしゃぐ無神経!」を観ると、大阪が、人の命を大切にしない社会であることは明々白々です。大阪では、テレビから、顔の汚い『お笑い芸人』から、新型コロナウイルス感染を抑えようとする言動は発せられず、政治の責任も問わず、そして犠牲者に対する想いもまったくない。まったくの人非人。そういう大阪の実情がこの記事から伝わってきます。ロクデモナイ。 「大阪死者激増のなか吉村知事が読売TVのバラエティに40分出演、『死者は高齢者』と主張した上ハイヒールら芸人とはしゃぐ無神経!」(2022年2月22日 リテラ) 大阪での新型コロナウイルス犠牲者や高齢者に対する感覚・論理は、2016年に発生した「相模原障害者施設殺傷事件」(2022年)と同じなのです。死んだほうが社会のためになると正当化するキチガイの感覚です。結局はそう言って殺人を肯定しているお前こそがキチガイで、社会の害なのだということがわかっていないのです。 大阪は、人の命を大切にしません。そんなところにはもちろんいきたくない。そして、当然、そういう社会はこれから伸びることはありません。たとえ、一時的に伸びているように見えても、そういうことは近視眼的な思考の表われで、根本的に大阪に将来性があることを示すものではないのです。 なぜ、そうなるのか? それは人を大切にしないからです。とても簡単な理由なのです。人を大切にしないということは、社会を大切にしないことです。そんな社会が伸びるはずはないのです。 そして人と社会を大切にしないことは国を大切にしないことなのです。そんなものをモデルにしたら国が当然亡びます。 実は人と社会を大切にしないことは、戦前・戦中の日本とまったく同じということなのです。だから、かつての日本は亡びたというとてもシンプルな理由でしかないのです。そして、今また同じことをやろうとしているにすぎない。それが大阪ということにすぎないのです。 とにかく東京はそうならないようにしっかりとしないといけません。 | |
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