このブログのトップへ こんにちは、ゲストさん  - ログイン  - ヘルプ  - このブログを閉じる 
薩摩いろは歌  幕末編22 有待庵 (無料公開)
[【時代小説発掘】]
2013年9月15日 15時24分の記事


【時代小説発掘】
薩摩いろは歌  幕末編22 有待庵
古賀宣子



(時代小説発掘というコーナーができた経緯)


梗概・有待庵
 薩長盟約締結報告のため帰藩した大久保一蔵は、久光から京都に隠宅を構えるよう命じられる。盟約での約束が薩摩藩の基本方針となり、長州藩の雪冤運動を側面からも支える形で動き出す。 


 
作者プロフィール:
ひっそり年金暮らしの老夫婦。


これまでの作品:
薩摩いろは歌 幕末編1 口上
薩摩いろは歌 幕末編2 率兵上京に向けて
薩摩いろは歌 幕末編3 時に到りて涼しかるべし
薩摩いろは歌 幕末編4 久光入京
薩摩いろは歌 幕末編5 寺田屋事件 
薩摩いろは歌 幕末編6 舞台裏  
薩摩いろは歌 幕末編7 勅使東下
薩摩いろは歌 幕末編8 無明の酒
薩摩いろは歌 幕末編9 極密献策
薩摩いろは歌 幕末編10 外交初陣
薩摩いろは歌 幕末編11 中川宮朝彦親王
薩摩いろは歌 幕末編12 戦端
薩摩いろは歌 幕末編13 戦禍
薩摩いろは歌 幕末編14 八月十八日政変
薩摩いろは歌 幕末編15 生麦事件の総括
薩摩いろは歌 幕末編16 西郷召還
薩摩いろは歌 幕末編17 元治国是会議
薩摩いろは歌 幕末編18 長州藩処分問題
薩摩いろは歌 幕末編19 藩政改革
薩摩いろは歌 幕末編20 薩摩藩の周旋運動  
薩摩いろは歌 幕末編21 薩長盟約



               
 ↓  ↓  ↓  ↓  ↓  ↓   ↓  ↓  ↓  ↓   





【PR】システム構築、ソフトウェア開発はイーステムにお任せ下さい


************************************************************
当サイトからの引用、転載の考え方
・有料情報サイトですが、引用は可能です。
・ただし、全体の文章の3分の1内程度を目安として、引用先として
「ニュースソース・NewsSource(有料版)」と必ず明記してください。
・ダウンロードしたPDFファイル、写真等は、透かしが入っている場合があります。これは情報管理上のことです。現物ママの転載を不可とします。ただし、そこから情報を引用しての表記は可とします。その場合も、全体の3分の1内程度を目安として、「ニュースソース・NewsSource(有料版)」と引用先を必ず明記してください。
・商業利用の場合は必ず、連絡下さい。
 メールは、info*officematsunaga.com
(*を@にかえてください)
************************************************************

【時代小説発掘】
薩摩いろは歌  幕末編22 有待庵
古賀宣子



一 隠宅

 二月一日に帰藩した大久保一蔵は、その足で二之丸に居住する久光のもとへ。
薩長盟約締結の報告である。
「よし」
 短く発した言葉は、「それでよし」とも、「では、次は」とも受け取れた。その両方だろうか。が、間もなく疑問は明らかになる。
「京へ戻ったら隠宅を構えろ」
「隠宅、で、ござおいもすか」
 藩邸を出て一人住まいをする藩士は珍しくなく、西郷吉之助もそうだが、隠宅には何か別の意味合いがあるようだ。
「盟約を蔭から支える必要もあろう」
「正面からの運動ばっかいじゃのして、ちゅう意味でござおいもすね」
 長州藩士は、表向きには、入京を許されていない。その藩士らを密かに受け入れる場が京都に必要と、久光は言っているのだ。
 すると隠宅といっても、ある程度の広さがなければならぬが・・。目立ち過ぎては役割を果たし得ない。あれこれ思いめぐらしていると、久光が案ずるなと言いたげに微かにうなずく。
「早速、帯刀に書状を出しておく」
 そして間をおかず久光はつけ加えた。
「早い方がよい。二十日過ぎには入京せよ」
 久光のもとを辞しながら、一蔵は鹿児島を発つ日を逆算した。

「今度はいつ発たれうのですか」
 出迎えた伸熊が上目づかいに尋ねる。
「帰られたばかいの御父上様に、なんちゅう挨拶をすう」
 大人びた口をきく彦熊だが、目の翳りは同じ思いとみた。
「大事なお仕事を務めておられうのですよ」
 たしなめる満寿子。華奢な体つきは変らぬが、たくましさが加わったようだ。八歳、六歳、二歳と、息子三人を育てている母親としての自信に違いない。加えて、一蔵の母が亡くなり、文字通り留守宅の柱となっている日常もある。
 
 夕食後、自室に戻った一蔵は、嘉介を呼んだ。
「詳細は申せぬが、京の情勢から益々目が離せなくなっておい」
 しばらくは戻れないであろう。
「心得ておいもす。長州討伐の噂も入っておいもすゆえ」
「薩摩藩の目線は日本国の行く末にあう」
 じっと耳を傾ける嘉介。何かを感じ取った顔つきだ。
「久光公よい、隠宅を持つごと命じられた」
「それが藩の方針に不可欠なのでござおいもすね」
 得心したような頷き方だ。
「これまで以上に」
 一蔵は暫時、言い淀んで続けた。
「満寿子を支えてほしか」
 久光から隠宅をと命じられたとき、任務の重さを自覚すると同時に、私心が心底を突いた。
 島妻の存在を知った母と同じ思いを、満寿子にさせるに違いない、と。
「一蔵様はお優しい」
「嘉介は幾つになった」
「五十七です」
「いつまでん厄介をかけうのう」


二 筑前藩乙丑(いっちゅう)の獄

 鹿児島滞在は十日ほどだった。入京は二十一日。一蔵はそのまま、二本松藩邸から北西に三町ほど離れた小松邸に向かった。小松帯刀は、「御花畑」と呼ばれている近衛家の別邸を借りている。
「格好の場所が見つかったぞ」
 小松帯刀が待っていたといわんばかりに招き入れる。
「石薬師御門近くで」
 石薬師御門は御所の北東にある九門の一つである。
「寺町通から少し東に入ったところの借家だ」
 敷地六十坪で建坪三十坪の、京都でよく見かける町屋という。
「しかも、隣も借家でのう」
 そこも、大久保一蔵の名義で借りたと小松帯刀。
「無論、そちらの家賃は藩が払う」
 表だった交渉は、すべて徳三こと源助が行い、中の掃除も済ませてあると手際がいい。「何から何まで、お世話にないもす」
「未だ、あるのだ」と、小松帯刀は畳を指先で軽く叩いた。
「この茶室を裏庭に移築する手筈も整っておる」
 茶室は自身が建てたもので、薩長盟約を締結した場である。
「密談の為ですね」
 それには応えず、小松帯刀は「さあて」と、口調を改めた。
「最後に、身の回りの世話をする女人だが」
 こればかりは、勝手に決めるわけにもいかぬ、ゆえと、小松帯刀は笑い声をあげた。
「堅物のおぬしだが、一人ぐらいは、心にとまった芸妓がおるであろう」
 身請けの手配は徳三がするという。
「ならば一力のおゆうが」
「祇園茶屋の」
「帯刀殿に誘われて初めて出向いたのはいつでしたか」
「覚えておらぬ。おゆうと申す芸妓はその時からの馴染か」
「最近でござんで。盟約を結ぶ前じぁんどん、朝廷に深く失望し」
 一蔵が「朝廷是カキリ」と言葉を投げ捨てて、朝彦親王のもとを去ったのが慶応元年九月二十二日。翌日大坂から戻った西郷吉之助と、その晩、一力へ行った。そしてその翌日、一蔵が記した藩庁への報告書簡を持って西郷は鹿児島に出立するのだが。
「二十歳でなくなった姉なか子に面ざしがそっくいでして」
 おゆうの舞い姿と利発さを眼底深くに湛えた眼差し。それらは憤りを含んだ深い失望感をいっとき忘れさせてくれるに十分だった。気心の知れた吉之助と二人だったこともあり、酒の飲めない一蔵も少しだけ口にし・・。
 心底に宿った埋み火のようなほのかな温み。それを一蔵は大切にしていたが、年が明けた今年慶応二年早々、一瞬のうちに冷水を浴びせられるような事態が・・。
 西郷吉之助によってもたらされた筑前藩の内情である。
「詳細が判ってのう」
 昨年十月、藩庁は勤王派を根こそぎ弾圧。前家老の加藤司書ら六名が、二十五日に天福寺、安国寺そして正香寺でそれぞれ切腹。その二日前の二十三日午後から夕方にかけて、桝木屋獄の浜で十五人が斬首された。
「月形洗蔵も」
 一縷の望みをかけた一言も虚しく響く。
「六十二歳の海津幸一を除き、三十代の壮年が十一人、二十代が三名だそうだ」
「いずれも働きざかいじゃなかか」
前途春秋に富んだ人々ばかりだ。
「しかも、それだけじゃなか」
 切腹・斬罪・流罪・宅牢・押隠・徘徊文通禁止他すべての罪名が決まっていたにもかかわらず、内容は処刑当日まで一切洩れていなかった。
「ひそかに成案がつくられ、二十三日と二十五、六日の三日間で刑は実施されたと聞いておう」
「二十四日がとんでおうのは」
「前藩主斉清の忌日だったからで、他意はないらしい」
 大疑獄だったようだと吉之助の表情は暗い。
「勤王派の根絶やしだな」
 水戸藩、土佐藩、長州藩など勤王と佐幕の政権抗争は、どこの藩でも熾烈だった。相手を倒さなければ、こちらが喰われるとあって、血を血で洗う抗争が繰り広げられるのが常である。
「お由羅騒動を思い出すが、それにしても、ここまで大疑獄になうとは」
「弾圧のきっかけは禁門の変らしか」
 報せを受けた筑前藩は禁裏御守衛のため直ちに出兵。天福寺で加藤司書とともに切腹した斎藤五六郎も、参謀、大組頭介として、司書を補佐して出陣した。しかし上京の途中で事情が変わる。長州藩追討の幕令が出たため、遠賀郡黒埼で滞陣へ。
「しかも、あん頃、長州藩は四国連合艦隊の来襲が予想されておったし・・」
「それゆえ筑前藩は達しを出した」
 長州藩は朝廷に弓を引いた朝敵である。外国船が来襲しても応援してはならぬと、傍観する態度をとった。
「こん時、斉藤五六郎は一人、正論を吐いたそうだ」
 一家にたとえるなら、長州藩は兄弟ではないか。たまたま父の怒りにあっただけに過ぎない。もし賊が来て、害を加えようとしている時、何故傍観するか、と。
「なかでん」
 西郷吉之助は暫時口ごもる。
「斬首された筑紫衛だが」
 九月六日夜、幽閉されていた自宅の雪隠から脱出した。
「そや、もしや」
「そん、もしやだ」
 薩摩藩を頼って国論を回復し、同志を救おうとした。
「とこいが不運にも、那珂川下流の洲崎口を渡ろうとして溺死した」
 にもかかわらず藩庁は、その死体を塩漬けにし、申し渡しが下った十月二十三日、改めて斬首するという凄惨さだったという。
「そいどん、そん罪刑は」
 主殺し、親殺し、謀反といった重罪人が病死した際に科せられるものではないか。
「勤王と佐幕の内訌が、いかに激しかったかを物語っておう」
「藤井良節ら、あん時の脱藩者は、筑前藩迄よくぞ逃げおおせたものだ」
 あの時とは、お由羅騒動発覚直前に四人が脱藩した、その時のことである。
「御父上様が流人船で発たれう日の朝じゃったか」
「我等は動静を密かに語い合った」
 申し訳ない。もし筑紫衛が薩摩藩に逃亡していたならば、違った展開もあったかも知れぬ。もとより一蔵のせいではないが、藤井良節らのその後を思うと、臓腑が締め付けられるようだった。
「結局、断罪されたのは何人じゃったのだろうか」
「姫島に流された野村望東尼らを含め百八十余人と聞いておう」
「筑前藩は、有為な人材を失ったのう」


三 品川弥二郎

 一蔵は移築した茶室を「有待庵」と名付けた。
 有待という語は、『礼記』と『孫子』兵書のなかに見られる。
『孫子』では、敵の来たる無きを待つ勿れ、吾の待つ有るを恃めと、述べている。つまり、敵の来ないのを恃みにして居ってはいけない。何時敵が来ても差支えないだけの用意、すなわち有待を恃まなくてはならぬという意味だ。
 一方『礼記』はどうか。
 たとえば「有待之身」として、後来事を為さんと時期を待つ身、という意味になる。
 人間の行動を、動と静、陰と陽というように類型化した場合、自分は静と蔭の人ではなかろうか。禁門の変で華々しく活躍した西郷吉之助と藩地にあって後方支援を行った大久保一蔵。その後も、激動する政治局面で、どちらかといえば一蔵は、「待」の立場をとっていく。それは一蔵が望むと望まざるに関わらず、自然とその流れに身を置くことになり、一蔵自身も与えられた力を、そこで発揮していく。
つまり「有待」は、一蔵の身の処し方であり、行動様式でもあったと言えるかもしれない。
 それにしても、と、一蔵は身を引き締める。
 藩邸から、そして鹿児島の家族からも解き放たれた空間は、ある意味で危険だ。おゆうとの暮らしに、心がつい傾きがちになっては。
いや、絶対にならぬとは、言いきれぬ。
 一蔵は「を」ではじまる日新公いろは歌を、声にならぬほどの声で諳んじた。

  小車のわが悪業にひかれてや
          つとむる道を うしと見るらん


 欲望や情欲につい引かれてしまうのが人間である。そして何ともなかった仕事のことなどが辛くなって来て、さぼってしまい、悪行にはしってしまう。
 だから、日新公は、自分の道を感謝の心で努め、歩くように、と説いている。
 三月六日、その有待庵に、徳三が一人の武士を案内してきた。
品川弥二郎である。
 今年の正月八日、品川弥二郎は木戸貫治の供をして二本松藩邸に入っている。薩長盟約の場には臨んでいなかったが、木戸貫治が重要な任務を担っていたことは認識していたであろう。
「これを配るがためです」
 品川弥二郎は斜交いに背負ってきた荷を広げると、摺り物の束を見せた。
「長防士民合議書」
長州藩士民が藩主の冤罪を雪ぐため決死の覚悟であることが記されている。
「有栖川宮様他長州方の公家に配るつもいだな」
「その他、越前、熊本、尾張などへも」
 そこへおゆうが茶を運んできた。が、一礼してすぐ引き下がった。茶室が何に使われるかは、改めて説明などはしていない。おゆうに伝えたのは、ここが隠宅であるということだけである。それですべてを理解しのだろう。
「山口は何日に発ってきた」
 品川弥二郎は薩長締結後、木戸貫治に従って帰藩。二人にはいつも黒田了介が付き添っている。薩藩士を装うためだ。
「先月十四日に殿様の命を受け、十九日、黒田様と三田尻を出帆しました」
 二人は広島城下にしばらく留まり、三月一日に芸州草津より乗船。
「四日大坂湾に達し、三邦丸で小松様に会えました」
 三邦丸は帰国のため揚錨直前だったようだ。
 小松帯刀は二十九日に西郷吉之助らと京を発ち、大坂で坂本龍馬を伴って帰国の途につく手筈で、どうやら予定通りに進んでいるらしい。
「寝具も用意してあうゆえ、今夜はゆっくいと休むよう」
「助かります」
 品川弥二郎は一蔵よりも一回り以上若い。
 面長で、目は大きくもなく細くもない。正月に初めて会ったのだが、うわべを飾らない人柄に、兄弟のいない一蔵は、年の離れた弟のようで、好感を持った。
「徳三が戸口脇の部屋にいて世話をすう。何でん申すように」
 長州藩の雪冤運動を側面から支える形で、薩長盟約は動きだしていた。
 その一方で一蔵は、正面からも運動を開始していく。
 薩長盟約を結んでからの薩摩藩の行動は、盟約において長州藩に対してなされた約束の実行を、基本方針としている。
 第一に幕府と長州藩の戦争を、事前に中止するよう求め、戦争が開始されてからは、早期に終戦となるよう運動する。尚、この戦争を薩摩藩は、私闘であると性格付けし、長州を征討する戦争であるとは認めていない。
 第二には長州藩の冤罪赦免運動であるが、これはまず止戦・終戦運動のなかに盛り込んで主張していく。そして戦争が終結した暁には、幕府・慶喜が正しい状態にかえるよう反正を求める運動と併せて行う積りだ。
 第三には、「皇威回復」である。これは盟約の最高目標であるが、実は最も困難な道である。とりあえずこの課題については、朝政改革・廷臣の意識改革運動として進めていく。
 この第三の課題は結局、慶喜への将軍職辞職運動へと展開してゆき、最終的には「王政復古」へと行き着くのだが。


四 幕長戦争

 幕府と長州藩との戦争が避けられない情勢のなかで、四月初め幕府は薩摩藩に出兵準備の内命を下した。そこで一蔵は四月十四日に大坂城で老中板倉勝静と面会。
「天理ニ相戻り候戦討ハ、大義ニ於テ御請仕リ難」いから、たとえ出張の命令があっても「御断申上候」と、薩摩藩は長州への出兵を断ると記した上申書を差出した。
 板倉勝静は文面をみてから、受け取れないといったが、一蔵は聴こえぬ振りをして拒否する。この上申書の扱いをめぐって、城中で評議が重ねられたが、十八日になって、一蔵は板倉勝静の役宅に呼び出され、再び面談。そこで、次のように抗議した。
「幕府は勅許があったことを理由にして長州征討を強行しようとしているが、それは朝廷を脅かし、勅命をいつわったものである」
 老中との交渉は、途中から在京薩摩藩家老岩下佐次右衛門も加わって、二十七日まで続けられた。二人の執拗ともいうべき行動は、単に薩摩藩の出兵拒否の意志を幕府に伝えるためだったのではなく、諸藩の視線を意識してなされた「征長戦争」に対する抗議を誇示する行動であった。この点においても、薩摩藩は長州藩との盟約を実践していたのである。
 芸州藩が、五月二十九日と六月四日に、広島に出張していた老中小笠原長生に出兵を辞退する旨の上申書を差出したが、これには薩摩藩による抗議運動という背景があったのである。
 幕長戦争は六月七日、幕府軍艦が周防国大島郡上関を砲撃したことから始まった。
 戦況をにらみつつ京都への藩兵派遣を準備していた薩摩藩は、七月十日から八月四日までの間に六回にわけて鹿児島、大坂間を汽船で往復。禁裏守衛兵の名目で戦兵約一一四〇人に加えて、足軽その他の人数等を京都に派遣した。これは薩長盟約第一条の、戦争となったときは、直ぐさま二千余の兵を急速に派遣するという約束とは、多少違ってはいるが、戦況や京・大坂の状況を判断した上でのことである。従って、要請次第で後続部隊を派遣する準備が進められているのは、言うまでもない。
 また鹿児島からは禁裏守衛兵とともに、藩主島津茂久、父久光の連名による朝廷への建白書を託された伊地知壮之丞(貞馨)が、派遣されてきた。
 建白書は七月二十七日に、武家伝奏の手をへて関白二条斉敬に提出。その写しが同日、一蔵と内田仲之助によって、朝彦親王、晃親王、内大臣近衛忠房他に差し出された。
 そこでは「非常格外之朝議を以、寛大之詔」を下して戦争を終結することが要望されていたが、同時に天下の「公議正評」を尽して「政体変革」を実行し「中興之功業」を遂げられたいと主張。
 つまり、特別に寛大な詔であるから、戦争の終結だけではなく、長州藩主父子の官位復旧も要望しているのであり、かつ「政体変革」は即ち朝政改革を建言したものでもある。そして「中興之功業」は、まさに薩長盟約第六条の「皇威」の「回復」を意図したものであった。
 これより二日前の十八日に、芸州藩主浅野長訓、岡山藩主池田茂政、徳島藩主蜂須賀斉裕が連名で、朝廷に征長軍解兵の建言を提出していたが、朝議ではもっぱら薩摩藩の建白をめぐって議論となったようだ。薩摩藩の主張が、廷臣にとってそれほど厳しく重い内容だったのであろう。
 朝議は八月四日まで断続的に行われたが、結論は採用不可となった。朝議では晃親王、近衛内大臣、議奏正親町三条実愛らが採用論で、朝彦親王、二条関白らが拒絶論であったという。また意見を求められた一橋慶喜は、もとより拒否であったが、なによりも孝明天皇が解兵に反対であったことが、朝議の方向を決定づけたようだ。
 だが、この時、幕長戦争はほぼ終幕を迎えていた。小倉口の幕府軍が長州軍に敗北し、小倉城が落城したのが八月一日なのだ。その報告を受けても、当初慶喜は強気に戦争続行を主張。しかしついに十六日にいたって参内し、前言を翻して征長軍解兵を奏請して勅許を得たのである。そして九月二日、幕府と長州藩とのあいだで休戦協定が結ばれた。
 なお、将軍家茂が大坂城で病死したのが七月二十日、薩摩藩が建白書を提出した日と重なる。死去の報せは即日朝廷に届けられていた。将軍死去の公式発表は八月二十日。同日、慶喜の宗家相続が、幕府によって布告された。


五 ハリー・パークス一行

 前後するが、幕長戦争がはじまって間もない六月十六日、英国公使ハリー・パークス一行を乗せたイギリス軍艦プリンセス・ロイヤル、サーペント、サラミスの三隻が鹿児島の港に入った。
 この日、天気は大いに晴れ、海上はあたかも鏡の如くで、三年前に暴風激雨の間に砲弾雨が飛び交った時とは別天地の観があったと、
国元からの報告だ。
 投錨と同時に陸上から歓迎の祝砲十五発が発せられるや、英艦もまた国旗を掲げて二十発の祝砲を発射。
 パークスが乗ったサラミスに乗り込んで出迎えたのは、大目付の新納刑部と通詞の堀孝之。二人は前年に訪英している。串木野の羽島港からひそかに出航した英国使節団十九人の一員として。
 一行は午後四時頃、津畑(現・名山町)から上陸。下町石燈籠下(いづろ通り)から休憩所になっている田ノ浦(清水町)の良英寺に向かった。沿道には多くの見物人が詰めかけ・・。
 その模様を報告は詳細に綴る。
 数千の日本人、過半は未だかつて外国人を目撃せざる者なるべし。道路の左右に群集し、観る者堵(垣)の如し。役人など頻りにこれを制してその中間を通行す、と。
 また石燈籠下あたりでは、町人たちが金屏風を出して通りを飾り立てたという。
 しかし見物人のなかには「夷人を初めて見候、生スカン物共にて候」と、露骨に外国人を毛嫌いする者もいた。
 宿舎の良英寺近くではこんなことも。
 見物人のなかに寄合(一所持の下の門閥家)の新妻がいた。
「夷人見染め、自分の金の小はしなどを引きちぎり、差し送り候」
 イギリス人が目ざとく見つけて、求愛の印に金の首飾りを引きちぎって贈ったというのだ。
 よほど美しかったのであろう。一蔵の口元がほころぶ。
 二日目の六月十六日は、薩摩側がパークス一行を磯の御茶屋(仙巌園)に招待。出迎えたのは無論、藩主茂久と国父久光だ。
 初めて逢い候挨拶にて、だと。
 一蔵は一瞬、眼を見開いた。
「互いに手と手を取り合い候事、男女共に同じ礼式にて候由」
 一蔵は、握手をする久光が、顎を引いてやや上体をそらす様を思い浮かべた。それが驚いたときに久光がよくする仕草だ。
 この挨拶については、小松帯刀からも書簡が届いている。
「世界普通の御会釈にて英国人もよほど有難く存じ奉り候向きにて先々大慶の至り」
 薩摩側は握手が万国共通の挨拶方法だとはじめて理解したという。
 これは後日、帯刀殿に実演して貰わねばと、一蔵はひとりごちた。
 報告はさらに続く。
 両者は長い食卓に着いた。
 上座である床の間側に小松帯刀が通詞とともに立ち、左右の席に薩と英それぞれが坐った。
 接待役の薩摩側は茂久・久光のほか、家老の桂久武・新納刑部・川上久美・島津伊勢など。英国商人グラバーも薩摩側に。賓客のパークス一行と合わせて二十三人。
 料理は割烹風の日本料理である。
「吸物十三種のほか、二の膳・三の膳合わせて、じつに四十五種もの料理が出されたとは」一蔵は驚嘆。
 飲物はシャンペン・ビール・日本酒などの酒類も振る舞われた。その間、日本の管弦の調べも半刻ほど奏でられたという。
 一行には長崎在留のイギリス人が記者として同行、英字紙「横浜新報」に記事を送るためらしい。その記者は献立書を所望し、料理も味見してまわるという、よくいえば旺盛な好奇心、悪く言えば不躾な態度に日本側は半ば呆れたようだ。
 吸物でも何でも、出るとただちに手を差し込み、鼻で嗅ぎ、口に入れて味が悪いと吐き出した。猿の性質によく似て、梨や桃はことのほかお気に入りで賞翫し、梨は皮も芯も残らず食べてしまったとある。
 パークスも上機嫌で、「今日の酒肴目録(献立書)を破ってくれれば、
共に夜まで過ごしたい」と、予定を変更してもよいという口ぶりだった。またパークスは折からの第二次幕長戦争に触れ、雑談風に久光に尋ねたという。
「幕府と長州の戦争はどちらが勝つか、ご意見をうかがいたい」
「まずはあなたの意見を聞きたい」と、久光が返すと、パークスは「勝負はつかないのではないか。日本の小国(長州のこと)で勝負がつくはずがない」と答えた。久光は何も答えず笑っていたという。
 両国打ち解けた雰囲気のなかで、さりげなく発せられた微妙な政治向きの話題。つい本心を洩らしかねない場面だが、久光は巧みに逸らしたようだ。
 薩長盟約が成立し、薩摩藩はひそかに長州藩を支援している。パークスは、それをどの程度掴んでいるのだろうか。一蔵は、久光の対応に注目し、この箇所を幾度となく読みかえした。
「大事な姿勢だ」
 また、小松帯刀と西郷吉之助も英国軍艦内でパークスと会談したようだ。薩摩藩が兵庫開港に反対していると批判したパークスに対して、二人は幕府の外交権に反対しているのであって、朝廷が政権を握ればその限りではないと主張し、パークスの理解を得たという。
 話を戻そう。
 宴席ののち、パークス一行は薩摩藩の洋式軍隊の操練や大砲調練
も見学。特に大砲調練は軍賦役の中原猶介の指導により、十ポンド野戦砲を四百五十メートル先の方形の的に何度も命中させたので、パークス一行も「その習慣練熟驚くに堪へたり」と感嘆。
 翌十八日、この日の宴席は、洋風料理である。なかでも、卓上に出された三頭の豚の丸焼には「今日の響応中最も奇観」と、一行も驚いたという。
「そいどん、薩摩側にとって豚料理はお手のもんじゃったろう」
 ちなみに数日間の響応に用いた食材は、鶏三千羽、卵五万個、豚三十頭で、これは上陸したパークス一行だけではなく、停泊している軍艦三隻の乗組員の分も含まれている。おかげで経費は三万両にも達したと報告は綴る。
 一行の鹿児島滞在は一週間に及んだが、その間、彼らが久光・茂久父子の様子をよく観察していたことを、一蔵は江戸藩邸から送られてきた英字紙「横浜新報」に添えられた訳文で知った。
 まず茂久だが、西洋人の彼らも、その「長身壮勇」に驚いており、アジアでこれほどの大柄な人物にほとんど会ったことがないと。
 一方、久光については、「短身にして肥大」と記しつつ、「起居傲然として、その容儀はあえて雅正ならざりし、然れども、王公の容貌なり」と、久光を多面的に見ている。
 当り前だ。一蔵は思わず呟いた。
 単なう優雅な殿様だけでは、こん難局を先頭に立って乗い切っていけうか。
 そして、「この人は日本において最も才略ある執政家の第一人なるべし」とも。
 的確な評価だ。一蔵は満足気に頷く。
 また一行は磯の御茶屋の庭園を遊歩し、「望嶽楼」に椅子を置いてくつろいだ。望嶽楼は琉球王国から贈られた支那風の四阿である。
 その後は薩摩藩が誇る集成館へ。そこは三年前の薩英戦争で焼失したが、今ではだいぶ再建されている。そのなかの施設で、砲弾を製造する「トルニンレース」を見学。これは動力に蒸気を使っているものだ。
 次は硝子製造所へ。ここでは全国に知られた薩摩切子をつくっている。一行はその技術力に驚いたようだ。
「硝子器を製するを見るに、その巧みなる、日本にて今より後、製造物に長ずるは、此の国(薩摩)の人にあること明らかなり」と感嘆。西洋の博覧会に出しても恥ずかしくないほどの手際だと、横浜新報は報じている。
 滞在中、一行は郊外にも出かけた。その一つが狩猟だ。
 イギリス人二十人と薩摩人四十人で磯の山奥へ。「一群の猟犬狩師」
の先導で行われたという。つまり猟犬が獲物を追い出したところを銃で仕留めるのだ。この歓待には西郷吉之助も加わったと、ある。
 二度の狩猟で鹿七頭・牝豕(いのこ)四頭を仕留めた。一蔵は、狩猟はしないが、満足できる結果だったに違いない。
 そして薩英戦争で焼失した浄光明寺跡(現・南洲神社)にも出かけた。同所は眺望がよいことで知られており、英国艦隊に焼かれた薩摩汽船(天祐丸・白鳳丸・青鷹丸)の残骸が沈没している様が遠望できる。
 水上に突き出した汽船のマストを見て、一行も「慙色を見(あら)はし」たという。さすがに三年前を思い出し、慙愧の念を抱いたらしいと報告書は綴る。
 わずか一週間の滞在だったが、薩英の友好関係を確かなものにする意義深い交流だったようだ。のちにパークスは次のように記している。
「訪問者たちにとって、薩摩のあらゆる階層の人々が心から歓迎してくれたことよりも、さらに嬉しかったのは、古い日本の武士が誇りとする自制心をこのときばかりは捨てて、自分の招いた客に対し、名残惜しげに別れを告げたことであった」

 






このブログへのチップ   101100pts.   [チップとは]

[このブログのチップを見る]
[チップをあげる]

このブログの評価
★★★★★

[このブログの評価を見る]
[この記事を評価する]

◆この記事へのコメント
コメントはありません。

◆コメントを書く

お名前:

URL:

メールアドレス:(このアドレスが直接知られることはありません)

コメント:


くる天
officematsunaga
速報情報は、オリジナル取材ネタも含めてtwitterで無料公開!
twitter

【オフイス・マツナガのブログ】

【CONTACT/連絡先】

カレンダー
<<2013年09月>>
1234567
891011121314
15161718192021
22232425262728
2930     
マーケット情報
by 株価チャート「ストチャ」


FX経済指標


会員制システム
会費は月額1000円で、すべての記事、すべての連載、バックナンバーを見ることができます。また、一般には入手困難な資料等をダウンロードできます。
 購読の規約に関しては、くる天 よくある質問を参考ください。


会費の支払い方・課金の仕方

1:くる天へ会員登録する。
2:ポイントを購入する。
3:記事を購入する 。
 という手順となります。
 初めての課金の申し込み方

返金システムに関して

なお、会費を支払い購読されて「これは課金に値しない」と判断された方には、すみやかに返金に応じます。詳細は、返金システムに関してを参考ください。

入稿後は加筆・修正しません

有料会員制度のサイトという性格と、くる天さんのシステムから、有料記事に関しては入稿後の修正、訂正はきかないようになっています。そのため誤字・脱字・錯誤が含まれる場合があります。誤字・脱字・錯誤等の修正に関しては、別途、指摘させていただく場合があります。誤字・脱字・錯誤  修正情報

皆様へのお願い

 申し込まれたアクセスコード、パスワードを他人に教えたり、譲渡する行為は犯罪行為です。すでに、第三者におしえてしまった!という方は、すみやかにパスワードの変更をお願いします。やむなき場合は、しかるべき対応をさせていただきます。
皆様へのお願い  
当サイト連載コラム
週刊日程表

本日のマーケット

今週の永田町

永田町レポート

本日のオフレコ情報

遠藤顧問の歴史だよ

時代小説発掘(無料公開)

カテゴリ
全て (3356)
2014衆議院選挙当落予想 (12)
無料公開記事 (7)
週間日程表 (154)
選挙 (26)
政治 (86)
経済 (6)
社会 (17)
永田町レポート (67)
今週の永田町 (326)
本日のオフレコ情報 (71)
本日の日経225 (29)
本日のマーケット (1654)
特オチ最前線 (75)
瘋癲老人のレイジーな日々 (25)
扱い注意 (38)
ネットでメシウマ!ウェブマーケティングの虚実 (32)
伊藤博一の事件の眼 (23)
鬼デスクの酔いどれ日記 (44)
アダルトサイト運営奮闘記 (3)
遠藤顧問の歴史だよ (30)
業界記者の覆面レポート (2)
真名のケーザイ探検 (27)
ホッピー・モツ焼・闇市の世界 (4)
ネットでビビるな!ネット音痴の業界人へ (14)
今週のマスコミがびびったネットネタ by 野次馬 (10)
アラカルター久里&占い軍団 (46)
コーヒーブレイク・エクササイズ編 (64)
コーヒーブレイク・ボイスエクササイズ編 (12)
医読同源 (1)
永田町奥の院を新人記者「僕」行く (12)
アンコール (2)
「永田町に棲んだ女たち」2 (13)
「永田町に棲んだ女たち」 (15)
ぼやき三毛猫 (49)
白川司郎訴訟関係 (4)
動画で go !!!! (7)
縄文だよ!!!! (4)
【時代小説発掘】 (204)
2009年 衆議院選挙  最新調査データ (26)
衆議院選挙 選挙区レポート (4)
島田が行く!報道現場の盲点 (2)
誤字・脱字・錯誤  修正情報 (6)
見落とすな!ネット情報・リンク先・保存先 (3)
「永田町に棲んだ女たち・特別番外編」 (8)
雑誌販売動向 (7)
最近の記事
12/06 12:26 江戸浅草物語14「月こそ心よ花こそ心よ」 (無料公開)
11/15 15:30 〈助太刀兵法46〉北斎蛸踊り(8) (無料公開)
10/26 08:49 「本日のマーケット」(FX編)・・・今週は日米の金融政策イベントに注意。
10/26 08:40 「本日のマーケット」(株式編)・・・ 続伸後に日経平均株価が1万9000円台を回復。
10/21 08:39 「本日のマーケット」(FX編)・・・ドル円は120円ちょうどの壁を意識。
10/21 08:25 「本日のマーケット」(株式編)・・・手掛かり材料難のなか、方向感の出づらい展開。
10/19 08:33 「本日のマーケット」(FX編)・・・午前11時に発表される中国の一連の経済指標に注目
10/19 08:23 「本日のマーケット」(株式編)・・・午前11時、中国経済の指標しだい。
10/14 08:48 「本日のマーケット」(FX編)・・・昨日に続き中国の経済指標。米9月小売売上高。
10/14 08:31 「本日のマーケット」(株式編)・・・前日の動きが継続し軟調な展開。
10/13 08:46 「本日のマーケット」(FX編)・・・ドル円は120円大台を中心に方向感に欠ける動きが当面続きそう
10/13 08:36 「本日のマーケット」(株式編)・・・5日線(前週末9日時点で1万8218円)が下値を支え
10/05 08:46 「本日のマーケット」(FX編)・・・東京タイムではドル円やクロス円は押し目買いが優勢
10/05 08:34 「本日のマーケット」(株式編)・・・続伸後、日経平均株価が1万8000円に迫る。
10/04 12:07 江戸浅草物語13「天海僧正の結界が破られる時、魔界の者たちの進撃が始まるのか」 (無料公開)
10/02 08:44 「本日のマーケット」(FX編)・・・米雇用統計を控えた様子見姿勢
10/02 08:35 「本日のマーケット」(株式編)・・・週末要因や米雇用統計を前にポジション調整
10/01 08:47 「本日のマーケット」(FX編)・・・9月日銀短観、9月中国製造業購買担当者景気指数(PMI)などが材料。
10/01 08:35 「本日のマーケット」(株式編)・・・欧米株式の上昇を受けて買いが先行後、もみ合い。
09/30 08:52 「本日のマーケット」(FX編)・・・日中は119円後半のもみあい
09/30 08:44 「本日のマーケット」(株式編)・・・反発後、上値が重い展開。
09/29 08:55 「本日のマーケット」(FX編)・・・株安・円高パターンの継続はドル高圧力を後退
09/29 08:36 「本日のマーケット」(株式編)・・・続落後に落ち着きどころを探る展開。
09/28 08:46 「本日のマーケット」(FX編)・・・東京時間のドル/円は120円半ばを中心にもみあい。
09/28 08:36 「本日のマーケット」(株式編)・・・手掛かり材料難のなか、もみ合い。
09/25 08:53 「本日のマーケット」(FX編)・・・・朝方、イエレン米連邦準備理事会(FRB)議長が年内利上げが適切との見方を
09/25 08:44 「本日のマーケット」(株式編)・・・引き続き弱含みで推移。直近の安値1万7415円61銭を意識。
09/24 08:37 「本日のマーケット」(FX編)・・・・連休明けの東京時間のドル/円は120円前半を中心にもみ合う展開。
09/24 08:26 「本日のマーケット」(株式編)・・・続落スタート。連休中にNYダウが軟調に推移。
09/20 10:55 〈助太刀兵法45〉北斎蛸踊り(7)(無料公開)
オフイス・マツナガのサイト
[現役雑誌記者によるブログ日記!by オフイス・マツナガ]

[オフイス・マツナガ書籍部]

[今週のキーワードbyオフイス・マツナガ]

[オフイス・マツナガのブログWordPress版]

[週刊日程表(アクセス規制有)]

[調査分析報道・資料倉庫]

【公にされない公の資料を公開】

【その他 オフイス・マツナガweb管理人】

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
最近のコメント
風雲 念流剣 七 (無料公開)(鮨廾賚此丙郤圈)
宿志の剣 三 (無料公開)(会話スキル★吉野)
週刊・月間誌 販売動向13年3月6-7日(管理人:kitaoka)
週刊・月間誌 販売動向13年3月6-7日(珈琲好き)
■この国の最大の問題点は「スパイ防止法案」がない点。マスコミだけでなく、政党にも外国勢力が跋扈。(珈琲好き)
イチローストレッチが止まらない!(バーバリー 時計)
■あまりにあっけなく、野田民主党惨敗。あまりにあっけなく、安部自民党大勝利(takeshi.komi)
時代小説発掘 !!!!!告知!!!!!()
〈助太刀兵法21〉 尾道かんざし燈籠 (無料公開)(モンクレール ダウン)
薩摩いろは歌 雌伏編(十一)痛撃(無料公開)  (株式の初心者)
ブログ内検索

RSS
携帯からも見られます!
QRコード対応の携帯で、このコードを読み取ってください。

Copyright (c) 2006 KURUTEN All right reserved