野坂昭如さんが遺した言葉「戦前がひたひた迫っていることは確かだ」 | |
[日本の政治] | |
2015年12月11日 23時49分の記事 | |
11月9日、野坂昭如さんが死去され、昨日はそのニュースとともに野坂さんの半生がテレビで流されていました。また、『新潮45』で連載中の彼のコラムに送られた最後の原稿には、「この国に、戦前がひたひたと迫っていることは確かだろう」とあったと報道されています。まさにこの言葉はその通りでしょう。彼のその時代を見分ける力は確かだと思います。そしてこの言葉は、彼がこの世に遺す最も大事な言葉と考えた故であったと思います。
野坂さんが、今年8月に『サンデー毎日 2015年8月23日号』(毎日新聞出版)に寄稿した「二度と戦争をしないことが死者への礼儀だ」をリテラが詳しく引用していますので、そこで語られた彼の言葉を以下に引用します。(以下〈〉内が引用した言葉) 「野坂昭如が死の4ヵ月前に綴った、安保法制と戦争への危機感「安倍政権は戦前にそっくり」「国民よ、騙されるな」」(2015年12月10日 リテラ) 〈どんな戦争も自衛のため、といって始まる。そして苦しむのは、世間一般の人々なのだ。騙されるな。このままでは70年間の犠牲者たちへ、顔向け出来ない〉 先の大戦も自衛のため、そしてその戦争に勝てると言って戦争を始め、その結果は自衛と全く反対に国が崩壊した状態で戦争が終わりました。そして、今、政府与党のようにそのときに戻ろうとする復古主義を目指していると思われる人々は、国が崩壊した後の占領期を検証すると言っています。戦後70年を経てもいまだに問いただすべきは、その占領期に至った原因のはずです。この方たちは間違いなく同じ過ちを繰り返すでしょう。 戦前によく言われた言葉は自衛のためや「バスに乗り遅れるな」ですが、いまだにこの言葉を聞きます。この言葉には注意をしなければ必ず間違った方向にいきます。 〈戦争は人間を無茶苦茶にしてしまう。人間を残酷にする。人間が狂う。だが人間は戦争をする。出刃包丁で殺そうが、核兵器で殺そうが同じことである。戦場で殺し合いをする兵士が、家では良き父であり、夫である。これがあたり前なのだ〉 〈戦争は人間を人間でなくす。では獣になるのか。これは獣に失礼。獣は意味のない無駄な殺し合いをしない。人間だけが戦争をするのだ。今を生きる日本人は、かつて戦争へと突き進んでいった人間たちと、どこがどう違うのか。何も変わりはしない。だからこそ戦争の虚しさを伝え続ける必要がある〉 「今を生きる日本人は、かつて戦争へと突き進んでいった人間たちと、どこがどう違うのか。何も変わりはしない」という言葉は、戦争を体験した者でないとわからない言葉です。戦争を知らない社会の大半は、戦争はだめだとわかっていても、自分たちはかつての人々とは違うと思っているはずです。しかし、そうではないのです。先日、本ブログでの書評「『日本海軍400時間の証言: 軍令部・参謀たちが語った敗戦 』(NHKスペシャル取材班)」(2015年11月9日)で触れたように、『日本海軍400時間の証言』を取材したNHKのスタッフが、かつて戦争の中心にいた海軍軍令部の人々には自分たちに通じるものがあり、身につまされると告白しています。21世紀の現代であっても一歩間違えば、大きく道を簡単に誤る危険性を常にはらんでいるのです。 〈かつて軍国主義は軍隊が専横をほしいままにし、頂点に立つ何人かが協議。制度を整え、戦争を準備した。強力な指導者の登場は挙国一致体制が前提。今は軍国主義の世の中ではない。だが、世間が反対しようと無謀であろうと、無理のごり押しを平気でする。決めたらひたすら突き進む。この政府の姿勢は、かつてとそっくり〉 現政権の政治を見ていれば、非常に拙速で強引な政治手法が目立ちます。自民党OBからもそのような指摘がありますし、憲法学者だけではなく様々な学者から政治手法や政策などに反対の声が上がり、そして大きなデモはこのことを示す何よりの現象でしょう。現政権には本当に多く「憲法違反・憲法を無視する」という言葉が付きまといます。このような事態は見たことがありませんが、独裁ともいえる大変に問題ある状況であると考えます。 本ブログ「守成は創業より難し」(2015年10月26日)でも書きましたが、現政権の政治手法には、創業(制度を変えたり新しいこと)ばかりで、政治において圧倒的に大事な守成(バランスをとって安定化・継続化させ成果をあげること)の観点がありません。ですから、目新しさが目立つ反面、社会基盤が脆弱になっています。そして、その「新しさ」も実は「戦後レジーム」に一部でずっと言われていたことで、視線は未来ではなく、過去に向かっていて、単なる復古主義です。 このことの本質は国民と対話をしていないということでしょう。していても一部の人々とであって「国民」ではないでしょう。だから、平気でTPPのように国民国家が崩壊していく政策を積極的に推進できるのだと考えます。このような政治は必ずひずみを生み出します。そして、長く持ちこたえることはできず、最後は必ず崩壊していきます。政治とは国民の基盤の上に成り立つものであって、その基盤が崩れれば政治は成り立たず、新しい体制になることは必然です。 苦悩と生命力 昨日、テレビニュースで流れていた彼の半生を見ていて、あの時代特有の格好つけているけど、格好悪いというか垢抜けない、しかし、今やそんな人間像がまた格好いい、そんなことを思いました。本気で生きた人間の姿がそこにあるのだと思いました。 その姿の原点は、彼は自らを戦中派、戦前派、戦後派ではなく「焼け跡派」、「闇市派」と言っていたように、焼け野原にあるのであろうと考えます。その焼け野原での苦悩と慟哭、そして空虚と、一方で生きていかなくてはならないという強烈な生命力があるのだろうと思います。その本気で生きた姿には、苦悩と生命力が混在してエネルギーを放つ、そんな荒削りな人間像があるのだと思います。しかし、根本ではお気楽にはなれないから垢抜けない、そんな姿なのだろうと思います。そして、それは戦後昭和の根本であったのではないかと思います。 戦争によって想像を絶する悲しみ、憤り、慟哭、恐怖、飢えを味わい、その後の復興という中で支え合いながら生きてきたのが昭和という時代であったのだと思います。その中で、彼は包まれながら生きてきたと思います。だから、彼は人に絶望はしていない。メッセージを出し続けてきたことは、そのことの証でしょう。それもやはり昭和なのでしょう。 野坂さんはどうしても戦争にこだわると言っているように、昭和とはどうしても戦争の暗さを引きずり、その反面、熱く、そしてまた静かな透き通るような生の喜びがあり、時折、冗談交じりのファンキーさとともに強烈な生命力があります。しかし、その後の世代はあまりにも軽い人間像になっているのではないかと思います。それは戦争で体験した同じ想いを後代にさせたくないというこの世代の想いの裏返しだったのかもしれません。ただ、その後代への愛情から生まれてしまった育ちが良い軽い人間像は、また過去に戻る危険性をはらんでいるのかもしれません。 昨日のテレビ朝日『報道ステーション』での野坂さんについての報道の中で、彼が「飢えの体験をあっさり忘れ、食を他国にまかせ、その食を大量に廃棄している」という言葉がありました。この言葉を一字一句正確には書き取ってはいませんが、このような趣旨の言葉でした。 70年前、とんでもない飢えを経験している国が、TPPで国民の食を他国任せにするというのは、やはり政府が国民に対して本当に責任感を持っていないからでしょう。そして、そうすることに疑問を持たないのは、育ちが良すぎるからでしょう。だから、疑問もなくそのようなことができるだけでなく、前向きに進めることができ、そして、それを国家百年の大計と言うことができるのでしょう。これは自民党の皆様が本当にお育ちが良い証拠でしょう。 先日、亡くなった水木しげるさんも野坂さんも戦争を体験し、戦争を後生に伝え、反戦を訴えたリアリズムが厳然としてあります。そこには苦悩とともに生へのこだわりと生命力があります。だから、彼らの言葉にはリアリティーがあり、政治がどうあらねばいけないかという根本がしっかりた地に足がついた言葉があります。何が大事か優先順位が明確です。政治の根本は国民の安寧と平和しか実はないのです。すべてはそこから始まります。 平和ボケ 平和ぼけという言葉があります。国民が平和に浸ることができるというのは間違いなく政治の成功ですが、よく使われるこの言葉には二つの意味があると考えます。一つは、平和すぎていざという時のことを考えていないということ、そしてもう一つは戦争を甘く見て好戦的になることです。 食を他国に任せるような状態は明らかに無防備でしょう。国民が生きる基盤をないがしろにして国防などあり得るはずもないでしょう。どんなに先端的な武器を装備しても、国民が生きる基盤がなければ、意味がありません。現在の政権は安保、防衛と言っていますが、その根本が欠けています。これはまさに平和ボケのなせる技でしょう。 また、好戦的で、まるで戦争をサッカーの国際試合と同じ感覚でとらえている風潮が社会にあると思います。一国の首相が記者とのオフレコ懇談会で当たり前のようにやる気満々で他国との戦争を口にしています(「戦争やる気満々安倍オフレコ発言ぜんぶ書く 『仮想敵国は中国』『橋下の本当の評価』『慰安婦問題は3億円あれば解決できる』思い上がりと不安が入り混じった、なんと正直な告白」2015年6月26日 週刊現代)。これも戦争を甘く見ているからでしょう。甘く見ていなければ、そもそも食の基盤を失わせるTPPなどは推進しないはずです。 チャーチルが次のような言葉を述べています。 どんな戦争といえども容易なものはない。一度戦争に身を委ねた政治家は、制御しがたい戦いの奴隷となる これが戦争の実相でしょう。今や政治家の平和ボケから戦前がひたひたと迫っていることは間違いないでしょう。戦前もまた実は平和ボケであったのです。 | |
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