都知事選の主要候補予定者4氏による共同記者会見を私はこう観る その2 | |
[日本の政治] | |
2024年7月3日 18時1分の記事 | |
本ブログ『都知事選の主要候補予定者4氏による共同記者会見を私はこう観る 』(2024年6月22日)の続きです。
前回から少し時間が経ってしまい、都知事選挙も終盤にさしかかっていますが、都知事選の主要候補4氏のポイントを書いていきます。 ただ、ちょっとその前に3つのことを書いておきます。 ○ 候補者の選択肢が少ないと落選する候補者でも多数の票が自動的に入る これはごく常識的なことですが、選挙において候補者の選択肢が少ないと、落選しても多くの票を得ます。それも自動的に。例えば、議席がひとつで候補者が2人だと、その2人の候補者に票が分散していきます。 無論、かつての田中角栄氏のように、全国的にカリスマで、一方で自分の選挙区に細心の心配りをしているような候補者の場合は別です。また、両者ともに候補者として信用できるものがあるという前提です。 このようなとき、落選した候補者がたとえ有名でなくとも、実は多くの票が入ります。その理由は『選択肢が少ないから』なのです。このように選択肢が少ないと、投票行動の多くは、候補者のことをよく知っての上と言うより、選択肢が少ないから、単純にどちらかに入れるということになるのです。 そして、大抵の場合、このような選挙を闘った政治家は、落選しても私にはこんなに票が入ったと勘違いをします。この勘違いは、選挙区の広さが大きくなればなるほど、ひどくなります。選挙区が広くなれば、それだけ全票数は多くなり、落選しても多くの得票があるからです。選挙区が広い選挙は、参議院選挙の選挙区や都道府県の知事選です。 そして、このことは今回の都知事選挙にもあてはまります。 今都知事選挙では56名の候補者がいますが、6月19日に行なわれた『都知事選の主要候補予定者4氏による共同記者会見』で明らかなように、マスコミが都民の選択肢を4人に絞りました。このようにすることは『政治的公平性』や『候補者の取り扱いの平等』に関わり、放送法や公職選挙法に関わる問題になります。 しかし、一方で、ポスターをはることもなく、はったとしても選挙とは関係のないもので、民主主義政治の根幹である選挙において、その本来の目的から逸脱して、さらにそれを表現の自由とのたまうまったくのカス、バカな候補者や政党もあるわけです。民主主義を否定する行為を行なっておいて、その民主主義政治の根幹をなす『表現の自由』を叫んでも、そこには呆れるほどの矛盾があるわけで、ただ単にバカをさらけ出しているに過ぎません。そして、それをカス、バカと呼ぶのは当然と考えます。 このような呆れるだけの主張は、明らかに主権者を愚弄し、表現の自由を愚弄しています。共通感覚が壊れているこんな連中に、政治を良くする力はない。むしろ悪くするだけです。むしろ、こういう連中をカス、バカと表現することは民主主義政治を守るためには必要な表現の自由と言えると考えます。こういうものに対して口をつぐむと、民主主義、表現の自由が破壊され、崩壊していきます。 そして、それらカスを平等に扱うことが本当の平等になるのかは、もちろん疑問です。これは民主主義政治における『選挙』なのですから、最低限、民主主義政治の主権者に政策やメッセージをとどけ、主権者の判断を仰ぐという、主権者と民主主義の政治制度が本来求めている根幹をしない候補者は、そもそも論外ということと考えます。ですので、ある程度の枠組みを設けて、そこに焦点をしぼることは必要でしょう。 とは言え、そう考えた場合、以下の時事通信が報じるように、コイケが『公務』を理由に選挙活動をしないことは、やはり民主主義政治における主権者が本来求めていることとは完全に乖離していることと考えます。要するに民主主義政治と表現の自由を破壊するカス、バカと同じ。 ・ 『小池氏、異例の連日「公務」 「同じ土俵」回避狙う―都知事選 』(2024年6月29日 時事通信) そして、このようなコイケの行動は有権者の存在を無視する『独裁者』の思考なのです。だって、いくら公務とは言え、選挙で選ばれてなんぼですから、選挙で選ばれないと公務も何もありません。それを自分で今後も都知事が続くと選挙結果が出る前に決めつけて、選挙活動をしっかりとせず、主権者にしっかりとした判断を仰ごうとしないのは、明らかに『独裁者』の思考です。 選挙では、主権者に対して自己の政策、実績を必死にアピールして、主権者の判断を仰ぐことを第一に取り組むことが何よりも求められているのです。それが主権者と民主主義政治が本来求めている根幹であり、それをしないのは、主権者への挑戦であり、民主主義政治の破壊なのです。それを公務という理由で行なうのは本末転倒も良いところです。政治家としてはやはりレベルが低い。ごまかしは上手いですけどね。 選挙中の災害などの場合、公務に取り組むことは求められますが、民主主義政治の根幹である選挙のときは、その選挙に取り組まなければならないのです。しかし、コイケはそういうこととはまったく反対のことを行なっているわけで、これは明らかな民主主義政治とは対極をなす独裁思考であって、このコイケの独裁思考は再選を果たした場合、非常に大きなポイントになると考えます。 そして、この独裁思考を支援するのが、自民党(都連)、公明党、そして連合であるわけです。これらが民主主義を真剣に考えているのか? 現状は、コイケ、自民党(都連)、公明党、そして連合による専制体制ということでしょう。その専制体制が、コイケの独裁思考を暴走させているわけです。現状の都政においては、このことが問われていることの非常に大きなポイントと考えます。 ○ 都知事選挙のカオスを招いているのは何よりもコイケの存在ではないか? そして、このような選挙という民主主義政治の根幹を否定するコイケという存在こそが、上述のように選挙本来の目的から逸脱して、さらにそれを表現の自由とのたまうカス、バカの跳梁跋扈を許していると考えます。カイロ大学を首席卒業と言ってなんの訂正も、正当な弁解もない、質問されると誤魔化し、はぐらかして中身が無い回答を主権者にする、選挙本来の目的を無視して公務と言って主権者に対する選挙活動をしないなどなど、主権者と民主主義政治に真摯に対応しないコイケの姿がそこにあるわけです。 コイケにずっとある学歴詐称問題は、コイケをいじめるためではないと考えますし、この問題には明らかにおかしな点があるのです。問題は、そのことに真摯にコイケが応えていないことなのです。世の中広しとは言え、都道府県の知事や国会議員の中で学歴詐称問題があるのはコイケだけです。それは、やはりおかしな点があり、十分な説明が行なわれてこなかったからです。 そして、この問題は、主権者に平気でウソをつく政治家、都知事という問題があるのです。そして、政治家のつくウソは国民との共通感覚の欠如を意味します。このことは極めて政治においては問題があります。 主権者に平気でウソをつくアベスガ政治が、政治において非常に大きな問題を引き起こしたことは忘れるべきではありません。今もまだその負の影響はありますし、これからがその負の影響が本格的にポイントになると考えます。 なぜ、コイケはここまで学歴問題で様々な指摘を受けているのに、名誉毀損で訴えないのか? それは、裁判になったらカイロ大学卒業を証明するためにコイケの実力が公になるからであると多くの人は考えているわけです。要するにコイケには、カイロ大学を卒業したと証明できるだけの実力がないからと普通は思うわけです。 コイケにはそういう後ろ暗さがあり、一方でやりたい放題やっているのが現在の都知事ということであれば、バカな連中が何でもできると勘違いして、同じようにやりたい放題となっていくわけです(コイケを助けてもいるのでしょうが)。実はセレブ気取りのコイケとバカな連中は同じ穴のムジナ。要するにカオスと呼ばれる現在の都知事選挙の原因の主要部分は、現都知事の問題性にあるということなのです。 ○ 4候補にしぼったことで浮かび上がるポイント 話を戻します。 今回の都知事選挙でマスコミが、主要候補者にしぼることは仕方がないことと考えます。しかし、その一方で、主要候補者を4候補にしぼることが、妥当かどうかは議論のあるところでしょう。他にもそれに値する人がいるのではないか。そういうことは当然あるわけです。 その議論はここではこれ以上しませんが、今回の都知事選挙でこの4候補の枠内に入ると、たとえ落選しても多くの票が入るわけです。そして、その恩恵に浴しているのは、田母神氏と石丸氏です。この2人はこの主要候補の枠内に入らなければ、票数は最低一桁違ったと考えるべきです。 実は田母神氏は、2014年の都知事選挙でも、主要候補の枠組みに入って61万票を得ています。そうなると今回のポイントはこの61万票を上回るか、下回るかなのです。 ただ、そのポイントは田母神氏本人にあるのではなく、時代の変化がどのようになっているかと言うことに、実はあるのです。ここは非常に大きなポイントです。票数を大幅に減らすとなれば、バブルから始まり、今世紀に入って大きく活発化した『右翼の時代』の終焉を物語ることになるでしょう。そして、このことはいずれコイケに関わっていく極めて大きなポイントになっていきます。 石丸氏については、以下の日刊スポーツの記事にあるように同氏は『都知事選“国政の代理戦争化”を批判「迷惑千万」』と言っているわけです。これはこのように言わないと、この都知事選挙がコイケ対蓮舫氏の構図になってしまい、石丸氏が選択肢の枠組みからはずれてしまうからと考えるのが普通でしょう。要するに選挙戦略。 ・ 『石丸伸二氏「バカげたマネはやめてもらいたい」都知事選“国政の代理戦争化”を批判「迷惑千万」 』(2024年6月19日 日刊スポーツ) 石丸氏の発言は、東京都知事選挙が地方自治体の選挙なので、国政政党が与野党の代理戦争を行なうというのはおかしいというロジックなのでしょうが、まあ、この感覚も実はおかしいのです。実際、国政政党が地方選挙に候補者を出す場合、程度の差はありますが、注目の選挙となれば国政への影響は必ずあると考えます。実際、今年に入って行なわれた地方選挙とキシダ政権の低調は明らかに連動し、国政の問題になっているわけです。 石丸氏が市長をつとめた安芸高田市の人口は24,625人とあります(ウィキペディアより)。この人口は東京都西多摩郡瑞穂町(約3万1千人)よりも6千人も少ないのですが、そのような小規模の自治体でも注目の選挙となれば、国政政党の代理戦争になることは当然あります。 いわんや、東京は、日本の人口の10%以上で、日本のGDPの20%、予算規模はスウェーデンの国家予算と同じ。その首都東京の知事選となれば、国政政党の代理戦争になるのは当たり前のことです。 しかし、石丸氏は都知事選挙が国政に関係するのはおかしいと言っているわけで、それは石丸氏の感覚のほうこそ、あまりにもおかしいということにすぎないのです。そして、この感覚では、巨大な都政をあずかるにはあまりにも感覚が『田舎』すぎるのです。石丸氏のように都政の影響力の大きさに感覚がない人物が都政に関わると、必ず無責任政治や暴走する政治をおこなうことになります。この人物はまだ都政に関わる準備ができていません。無論、国政についても。 石丸氏が『都知事選“国政の代理戦争化”を批判「迷惑千万」』といったのは、都知事選挙がコイケ対蓮舫氏の構図になって自分に不利になることを避けるための選挙戦略と考えますが、そういう『選挙戦略』で、結局は実力のなさを露呈してしまうのですから、思考はかなり浅はかです。準備ができていないというより、そもそも政治家に向いているのか、どうか。ビジネスマンでいたほうがよかったと思いますし、または、安芸高田市長として『恥を知れ、恥を』と言って悦に入っていたほうがこの人物にとってはハッピー、本人のためには断然良かったのではないかと私は考えます。スケール感が丁度良い。 この人物には、同氏の動きの絵を描く参謀(もしくは本体)がついていると考えますが、実はその存在が時代から取り残されている、考えが古いということを露呈しているにすぎないと考えています。 ○ 今や『NHKから国民を守る党』から国民を守る党が必要 米大統領選挙では現職不利と言われます。それは当然でしょう。マスコミと主権者である国民、そして野党がしっかりと監視していれば、どうしても現職のマイナスポイントがあぶり出されてきます。このことは民主主義政治では当然で、そのようにやってはじめて政治腐敗を防ぎ、民主主義政治を正常の方向に近づけることができるのです。 しかし、この都知事選挙では以下の読売新聞の記事のように『立候補した現職は12勝0敗…「現職無敗の法則」』とまで言われる『現職有利』なのです。なぜ、そうなるのか? それはマスコミと主権者である都民、そして野党がしっかりと監視していないからでしょう。特にマスコミが非常に問題で、国政並みの規模をもっている都政を、地方と同じレベルでしか考えていないから、このようになるのでしょう。要するに上述した石丸氏と同レベルの観点であると、都政がしっかりとしたチェックを受けずに、どんどん劣化していくという構造になってしまうということです。やはり、今後は徹底した都政へのチェックと言うことを行なうことに非常に民主主義政治にとっての利益があると考えますし、このことが今後の最大のポイントでしょう。 ・ 『都知事選、立候補した現職は12勝0敗…「現職無敗の法則」いつまで続く 』(2024年6月29日 読売新聞) ただ、マスコミと主権者である国民、そして野党がしっかりと監視するということが行なわれなくなって、政治が腐敗するのは国政も同じです。それが何よりアベスガ政治の間の状態にあると考えます。アベスガ政治が過ぎ去って数年が経って、裏金問題などのアベスガ政治のウミが出てきたわけです。しかし、アベスガ政治の当時は、アベスガ政治の『御用記者、御用ジャーナリスト』と言われる人々が跳梁跋扈して(いまだにいますが)、さらに多くのマスコミやジャーナリストは沈黙したわけです。 そういうことが、アベスガ政治の問題を膨れあがらせ、腐敗を進行させ、裏金問題などになって現在浮上しているわけです。こういうマスコミの姿勢は、明らかに民主主義政治を放棄していると考えます、表現の自由、報道の自由を自ら放棄していると考えます。 マスコミのコイケ都政への甘い体質と言うことは非常に問題があり、現状、コイケ都政への追い風になっていると考えます。そして、このマスコミと同じことをしているのが、都知事選挙での掲示板問題を引き起こしている『NHKから国民を守る党』と考えています。 上述したように、この掲示板問題は民主主義政治の根幹である選挙本来の目的から逸脱して、表現の自由を含めて民主主義政治の根幹を破壊することが本質と考えますが、低レベルで拙劣なこの掲示板問題に焦点が当たることによって、コイケ都政への検証という今都知事選挙での『最大の焦点』が不問に付されました。明らかにコイケ都政には追い風のなっているのが、この掲示板問題の本質であるわけです。 実際、この掲示板問題は、コイケの別働隊という背景があるのではないかと考えます。要するに両者には共通の背景があるということです。 今世紀初頭、以下のように『NHK番組改変問題』ということが言われました。 ・ 『NHK番組改変問題 』(ウィキペディア) これはアベ氏と中川昭一氏が、NHKの従軍慰安婦問題についての番組に介入したということを朝日新聞が報じ、しかし、そのことが最終的に完全には証明されなかったという問題です。 ただ、この時期をポイントとして、マスコミの右傾化と言うことがでてきたと考えますし、実際、アベスガ政治ではアベ政権のマスコミへの介入が頻繁に言われていました。そして、この『NHK番組改変問題 』と時期を同じくして政治・社会においても右傾化が顕著になりました。 そういう今世紀初頭からの右傾化路線の動きの中のひとつの動きに『NHKから国民を守る』ということがあったと考えます。この動きは、NHKが右傾化路線に走るから、その動きを抑止するということではなく、左傾化したNHKを壊すという動きであったと考えます。要するにアベ氏、中川昭一氏と同じリベラル潰しの右傾化路線。 無論、このことはコイケと同じで、基本的に同じ方向性であるのが、実はこの両者なのです。 そして、今回の都知事選挙では、『NHKから国民を守る党』は掲示板問題という都政においてはどうでもよいことで、表現の自由を含む民主主義政治を破壊する行為に出て、コイケ都政やコイケの学歴問題に焦点があたることを避ける役割を結果として果たしているのです。このように見れば、何らかの背景が同じ可能性があると考えるのは自然なことです。そして、『NHKから国民を守る党』と以前は一緒であったつばさの党も同じ可能性が高いと考えます。あくまでも推測ですが。 『NHKから国民を守る党』の動きをこれまで見てきましたが、どう考えてもNHKよりも果てしなく劣化した団体であると考えます。NHKと比較してはNHKに申し訳ないと心から思っています。NHKにも問題はあるでしょう。しかし、この『NHKから国民を守る党』と比べれば、話にならないくらいNHKはしっかりとしています。NHKはかつての20世紀のように、社会問題をしっかりとえぐり出してほしいと思います。 都知事選挙における掲示板問題は、表現の自由を含む民主主義政治を破壊する行為ですが、その本質は社会における共通感覚の破壊です。共通感覚とは『コモン・センス(Common Sense)』であり、それは常識のことです。つまり、この問題は一般的に簡単に言えば、常識の問題、非常識の問題ということなのです。 これまでの日本では、選挙の時に選挙と関係の無いことをやるのはおかしいという共通感覚があったわけです。だから、法においても今回のようなことをいちいち規定しなくとも、これまで無数にあった選挙は、基本的に問題なく進行してきたわけです。 しかし、今は共通感覚が崩れている劣化した状態ですから、いちいち規定しないとものごとが回らない状態になっているわけです。でも、すべてのことをいちいち想定することはできないわけです。なぜなら、共通感覚という社会からはずれた劣化した感覚でやっているのですから、次になにをやるのか、どんなことをやるか、そういうことを想定できないからです。 選挙掲示板の枠に都知事選挙とは関係の無いポスターをはったり、その枠を売りに出したりということは想定されていないのです。なぜなら、それは『選挙』とは関係のないものだからです。そして、そんな目的外のことは想定する必要がない。それが正常な共通感覚というものです。 物事の目的、本質を理解して、ルールに則り行なうということで、社会はスムーズに、効率よく回るわけですが、今はそうではないわけです。これはモラルについても同じです。いちいち言わないと、それこそ何でもできてしまうと勘違いしてしまうわけです。このような傾向はやはり今世紀初めからはじまっています。20年以上前の2000年代初頭、テレビで『なぜ、人を殺してはいけないの?』と真顔で言っていた若者がいて結構話題になっていた記憶があります。 その時代の風景については以下の記事で書かれています。 ・ 『「なぜ人を殺してはいけないのか?」──元少年A『絶歌』が刺激した日本の“空気”【下】 』(2023年7月4日 松谷創一郎) そして、その時以降の状態は、以下の文春の記事のように『「人を殺したかった」不可解な動機の事件はなぜ2000年代以降に急増したのか』というであるわけです。要するに人を殺したい欲求が露わになっている社会になっているわけです。 ・ 『「人を殺したかった」不可解な動機の事件はなぜ2000年代以降に急増したのか 』(2021年1月26日 文春オンライン) どうして、人を殺してはいけなのか? それは、そういうルールを作らないと多くの人が人を殺し始めるからです。それは、『万引きはダメです』というルールを作らないと、万引きが横行するのと基本は同じです。人が人を殺すという『惨状』が生まれたら、社会も崩壊していきます。そういう惨状を経験して、最初は部族においての掟、その後は宗教における戒律となり、その延長線上での法律となっていくわけです。 そういう『惨状』を避けて平和に暮らしたい、生きたいという欲求もあるわけで、そういう感覚を含めて共通感覚=常識になっていくわけです。もちろん、そういう共通感覚=常識がうざったいという性悪の権化のような人々も沢山いるわけです。無論、そんな本性が発露してしまえば、世の中は大変な惨状となっていくわけです。そして、そういう『惨状』は共通感覚=常識の重要性への認識が薄れる、平和で安全で、一方で退廃した時代(バブルの時代)の中から生まれてくるわけです。 また現在の社会のもう一つのポイントは、思考においての現実感の喪失。これは2008年の『秋葉原通り魔事件』に見られ、ネット・SNSコミュニケーションの極めて重大な欠陥でしょう。『なぜ、人を殺してはいけないの?』と真顔で言っていた若者と同世代なのです。この思考においての現実感の喪失という問題は、2000年代初頭から見られる問題で、今に始まったことではない新しいことではないのですが、今や社会、特に若年層での最大の問題と考えます。彼らはそのことに気がついていません。 2000年代初頭、『なぜ、人を殺してはいけないの?』と真顔で言っていた若者は、今の40代前後なのですが、共通感覚の劣化は今にはじまったことではなく、その時代と右傾化の時代が、まさにリンクしているわけです。 共通感覚の劣化は、政治・社会でのウソの横行をもたらし、当然、モラルの崩壊をもたらします。ただ、実相は、共通感覚の破壊をして、モラルの崩壊を目指していると私は分析します。無論、このようにできるのは、共通感覚がないからです。それはある意味、日本人ではないということなのです。 『NHKから国民を守る党』は、今都知事選挙で極めて多くの人の怒りを買いました。これまでは、おかしな連中と思われていても無視されるだけの存在でしたが、しかし、これからは違うでしょう。そうなったときどうなるか。『悪名は無名にまさる』と彼らは言うかもしれませんが、世間から本気で悪名と認知されたら、それを美名に変えるには相当の時間がかかります。無名ではなく、マイナスになる苦しみが、そこにはあるのです。 4月28日の衆院補選東京15区で、『NHKから国民を守る党』は、以下のように弁護士の福永活也氏を擁立しました。 ・ 『N国が弁護士の福永活也氏を擁立へ 衆院東京15区補選 』(2024年4月14日 朝日新聞) しかし、結果はどうであったか。トップ当選は49,476票で立民・酒井菜摘氏。最下位はつばさの党で1,110票。『NHKから国民を守る党』は下から2番目の1,410票。下から3番目は秋元司氏で8,061票です。秋元氏と6千票以上の差がついているまさに泡沫になっているのが、『NHKから国民を守る党』の実相であったわけです。 すでにこの時点でほぼ終わっている状態ですが、この都知事選挙では、本当の意味での敵が無数に増えたのではないかと考えます。そして、先の衆院補選での『NHKから国民を守る党』の実相は、明らかに今世紀初頭からの右傾化の時代の衰退を物語っているのです。20世紀初頭から顕著になった右傾化の中で『NHKから国民を守る党』はのびてきましたが、この衆院補選で完全にその勢いが止まったのです。 ○ これまでの主張の後ろ暗さを感じさせ、ずるい人と思わせる人物 都知事選挙に立候補している人で、『うつみ さとる』氏がいます。この方は医師で、そもそも新型コロナウィルスについて反ワクチンを徹底して行なったその筋では有名な人です。しかし、掲示板のポスターには『このままでいいのか? 東京から日本を変える!』とだけで、反ワクのことはひとことも書かれていません。 この方が、ここ数年、政治・社会について働きかけてきたことは反ワクです。まずはそのことをしっかりと書くべきです。もし、この方が都知事になれば、感染症が発生した際、ワクチンを禁止することすらあるわけです。それは、明らかに都民の命に直結する問題なのです。 私は反ワクではありませんが、ワクチンの問題性についてはしっかりと追及・検証すべきと考えています。当たり前のことです。ワクチンについては本ブログ『ワクチンのお話し 』(2020年4月28日)や『ワクチンのお話し その2 1 』(2021年2月22日)などで書いてきました。現在の日本の問題は、ワクチンの自立開発・製造の能力がなくなっていることで、そのことは自公政権の新自由主義・市場原理主義政策の結果と考えます。私が国民新党の広報部長をしていたとき、公明党の国会議員と永田町では有名な米国人の医療・医薬ロビーストが国民新党に来て、外国製のワクチンの導入を強力に訴えていました。今から14年以上前のことです。そして、その結果が現状であるわけです。 うつみ氏は、新型コロナウィルス問題が生じてから、一貫して反ワクを主張してきたと考えます。この新型コロナウィルスとワクチンの問題は、この4年間の国政と都政の最大の問題であったことです。そのようなことについて、うつみ氏は反ワクを主張してきたわけです。以下の2021年8月6日の読売新聞では、東京メトロが反ワクチンのうつみ氏の著書の宣伝を撤去したと報じられています。 ・ 『東京メトロ、反ワクチン医師の書籍広告撤去…マスクの感染予防効果を否定する記載 』(2021年8月6日 読売新聞) そのような方が、今回の都知事選挙で、ポスターにワクチンの『ワ』の字も書いていないのは、明らかにおかしいでしょう。というよりずるい。要するに隠したいのでしょう。都政においてこれだけの重要なポイントについて、そして、何よりも本人の主張の最重要ポイントであるのに、そのことをしっかりと書かないことにとてもずるさを感じますし、何より『反ワクチン』の主張の問題性と後ろ暗さを非常に感じます。 あれだけ反ワクチン、マスクはいらないと言ってきたのですから、そう書くのが『正々堂々』、都民への最低限の責任というものです。 | |
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