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『孫の二乗の法則』 第7章 「風林火山海」の実践と応用―?孫正義は、織田信長流「退却の名人」である
2010年11月29日 19時3分の記事
 
目次

第7章 「風林火山海」の実践と応用

孫正義は、織田信長流「退却の名人」である


しかし、孫子は、「軍争篇第七」で「風林火山」とこれに続く、「陰雷」を示した後に、「負ける戦いはしてはならない」との立場から、以下のように「戦争の法則」を教示している。
「故に用兵の法は、高稜には向うなかれ、背丘には逆うなかれ、伴(いつわ)り北(に)ぐるには従うなかれ、鋭卒には攻むるなかれ、餌兵には食らうなかれ、帰師には過(とど)むるなかれ、囲師には遺して闕(か)き、窮寇には迫るなかれ、此れ用兵の法なり」
 これをわかりやすく、言い換えると、次のようになる。
「故に戦争の法則は、山地を占領した敵軍を仰いで攻撃してはならず、高地を背にした敵まともに攻撃してはならず、負けると見せかけて退く敵軍を追撃してはならず、精鋭な敵軍のいるところを攻撃してはならず、敵軍がおとりで我軍を誘っても、その罠にかかってはならず、敵軍が自国に退くときは立ち塞いではならず、敵軍を包囲するときは逃げ道を開けておかねばならず、敵軍を窮地に追い込んでも、(必死に戦ってくるかもしれないので)急いで攻めてはならない。これが戦争の法則である」(『孫子訳注』東方書院刊、訳注:中国軍事科学院副院長、郭化若、監訳:立間祥介)
 危険を察知したら、迷わず「退却」することも大事である。深追いすると敵に叩かれて、壊滅させられてしまう恐れがあるからである。
 織田信長は、桶狭問の合戦で奇襲攻撃によって勝利を収めたばかりではなく、「退却の名人」として名高い戦国武将であった。

 旧日本陸軍士官学校の教科書『統帥綱領』(解説・大橋武夫、建帛串社刊一は、「統帥の源流」のなかの「士二、退却」において、「北陸よりの退却を断行した織田信長」天正五年(一五七-七)について、以下のように述べている。「元亀四年(一五七三)四月十二日、武田信玄が死ぬと、天下は上杉謙信と織田信長の両雄によって争われることになり、北陸地方において、まず両軍の接触が始まった。信長はその京都進出を北方より妨害する加賀越前方面の敵を撃滅するため、天正元年八月、越前(福井県)に進攻し、朝倉氏を滅ぼして、地歩を北陸に進めたが、その後朝倉氏に代わって勢力を奮う一向一撲に対し、天正三年八月、八万の軍を率いて大挙進撃し、今庄(武生)平史地で捕捉討滅して、加賀(石川県)南境に進出した。
 謙信は永禄二年(一五五九)、京都にのぼって足利将軍に謁し、京都進出の大志を抱いて帰ったが、その途上には越中(富山県)、加賀、越前の一向一揆や諸豪族が立ち塞がって、大きな障害をなしていた。
 謙信は永禄三年以来しばしば越中に進攻して、諸豪族や一向一揆の征服に努めたが、彼らの陰の支援者たる信玄の死により、その勢力が減衰したのに乗じて、一気にこれを掃討するに決し、天正元年(一五七三)七月、越中を攻略しも八月には加賀北部に進出していたので、ここに謙信、信長の両雄が加賀平地において対決することになった。両軍の衝突は天正四年(一五七六)、七尾城の内紛によって点火された。七尾城内が二派に分かれ、それぞれ謙信と信長に、援助を求めたのである。
 謙信としては加賀に進攻するために、七尾城を手に入れて背後の安全を図る必要があり、天正五年(一五七七)九月、信長に先んじてこれを攻略した。これを知らない信長は五万の兵力をもって北進を開始し、九月十八日、手取川を渡ってその北岸に進出し、陣を構えた。信長軍加賀進入の報を得た謙信は、これと決戦を企図し、自ら三万五千の軍を率いて南進し、二十三日には織田軍の陣前に到達して、松任に本営を置いた。この夜、信長の陣営に謙信からの手紙が届いた。文面には
『……かねてご高名は承っているが、この度初めてお手合わせできる機会を得て喜んでいる。乱軍の間に行き違っては残念であるから、明日卯の刻、金津川までお出かけください。大将同士で決戦しよう。……』
 とあった。信長の参陣は極秘にしてあり、味方でも知らない者が多かったのに、謙信は早くも嗅ぎつけて決戦状をよこしたのである。いよいよ天下分け目の大決戦である。『勝敗や如何に!』と皆息を呑んだが、意外にもその夜、信長軍は闇に紛れて退却してしまった。夜明けとともにこれを知った謙信軍は、罵り潮りながら猛追撃を敢行したが、信長軍はこれを振り切り、逃げ帰ってしまった。
 信長は七尾城の陥落を知らなかったらしく、上杉軍が陣前に進出したのを見て、初めてこれを察知し、しかも謙信自らこれを率いていることを知って、大いに驚いたが、退却の主原因はこれではない。
 信長は、ここで謙信と決戦することの愚を悟ったのである。彼の本来の目的は京都確保にある。こんなところで川中島合戦のような名人戦をやっていたのでは、たとえ勝っても損害が大きく、時日も無駄になり、そのあいだに、漁夫の利を狙う第三者によって京都を占領される恐れがある。すなわち信長の周りには、流浪中の将軍足利義昭を盟主とし、武田勝頼、毛利輝元、大坂本願寺、紀伊の雑賀衆の宗徒などよりなる反信長同盟があり、また叡山の焼き討ち(一五七一)、長島一向一揆の虐殺(一五七四)、越前加賀征服時の厳罰政策などにより、多くの人の恨みを受けており、少しも油断できない事情にあった。これが信長に退却を決意させたのである。信長の退却は世間の物笑いになり、次のような落書きまで出る始末であった。
 上杉にあうては織田も手取川
 はねる謙信逃げる信長
 追撃途上でこれを見た謙信は、『いかにはねても飛ぶ長(信長)にはおよばぬ』と言い、『信長がこんなに弱いとは驚いた。天下は謙信の手に入ったも同然だ』と笑ったという。しかし、この不名誉な退却が信長に天下を握らせたのである。あの向こう意気の強くて怒りっぽい信長が、よくも我慢をしたものである。長篠における武田勝頼と比べてみると、『さすがは名将!』と、その勇気に感嘆させられる」

 孫正義は・織田信長に学び、やはり「退却の名人」である。その実例を紹介しておこう。
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