薩摩いろは歌　幕末編26 　薩長芸出兵協定日誌（無料公開）

[【時代小説発掘】]

2014年2月16日 11時9分の記事

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【時代小説発掘】
薩摩いろは歌　幕末編26 　薩長芸出兵協定日誌
古賀宣子

一　「決策」への決意

　慶応三年九月十五日。
　大久保一蔵は大坂から山口へ向かう。土佐藩の大政奉還建白運動に見切りをつけた薩摩藩在京首脳部は、「兵を以て尽力」するという行動を開始したわけである。
　十七日。山口着。
　十八日。一蔵は長州藩主父子に挨拶したあと、政事堂へ。
　両候および藩政府首脳一同列席のまえで、ついに「決策」におよぶ決心をするにいたった経緯と、後藤象二郎の言動そして芸州藩「憤発」の次第などを詳細に語った。芸州藩の「憤発」とは、土佐藩の建白書について「少々異論、尤も大体は同意なれ共、文字上等なり」という辻将曹らの意見を指している。
　一蔵はさらに続けた。
　京都のことは、薩摩藩一藩で引き受ける。たおれ死に尽くしても巣窟を挫き、巣窟とは京都の幕府勢力のことです。そして禁闕警衛の任を遂げる。それを薩摩藩がやります。「政変」の決行だけなら薩摩藩単独でも、なんとかやれるでしょう。
「八月に柏村が上京した際に、西郷殿から伺った内容と同じですな」
　重役方が相槌を打つ。
「しかし」と、一蔵はその後が問題と述べる。
「政変」に反対する勢力や幕府方の巻返しへの対応、また当然予測しておかなくてはならない、幕府側との武力対決など。これらは残念ながら薩摩藩一藩の微力では、とうていやり遂げることはできない。
「それゆえ、長州藩の応援が是非とも必要です」
　一蔵はそう訴えた。
「なぜ、そのように決心するにいたったのか」と毛利定広。
　その問いに一蔵は次のように答えた。
　幕府の「従来之罪跡」は顕然であり、それに対する自分らのこれまでの建言や「列藩之公議」が、まったく採用されなかったことは事実である。しかしそれだけの理由で「政変」を決意したのではない。実は「皇国之倒るゝを見ニ不忍赤心より、不得止次第之趣ニ出」るのだと。
　一蔵は念を入れ、繰り返し主張した。
「権力欲とか、幕府の不徳をなじるとか、そういった問題だけではなく、日本という国のために、もはや止むにやまれぬ気持ちとなっており、そのために決行するのです」
「どのように手を下すのか」
　木戸貫治が「政変」の具体的な方法について質問した。
　一蔵は「大凡之筋」を説明。
　さらに木戸は「場合によっては天皇の動座もあるだろうが、その点はどうか」と訊ねた。
「まず大坂に遷座を考えているが」
　幕府が外国と結託して対抗し、京・大坂が騒乱の地になるような場合は、遠方の勤王藩への動座も有り得ると。
　こうして薩摩藩の「政変」計画は、長州藩父子・重役一同に承認されたのである。同じ日、藩主毛利敬親から大久保一蔵に、短刀が手渡された。
　翌十九日。薩長両藩出兵の「条約書」が正式に取り交わされる。そして、この日、一蔵は京都へ戻るため山口を発ち三田尻へ。が、鯖山峠を越えてしばらく歩いた橋番所近くで、芸州藩重役植田乙次郎と出会う。
「藩主の命をうけて、薩長の会談に参加するために広島から参ったところです」
「それは、すれ違いにならずよかった」
　芸州藩を「政変」に誘ったのは、薩摩藩である。小松帯刀が在京の芸州藩家老辻将曹に、武力を動員するつもりであると、打ち明けたのだ。九月十日のことである。辻は急ぎ藩士黒田益之丞を帰藩させた。その報告を受けた芸州藩庁は、植田を山口に派遣したという。
　小松が辻に計画を打ち明けるにいたった経緯は、大久保がすでに柏村に語っており、長州藩へは伝わっている。それは・・。
　芸州藩が書面をもって強硬に迫ろうとしたのは、大政奉還だけではなく、将軍職の辞職であり更には将軍職廃止の要求であると解した。その実現のためには、武力に訴える覚悟もある。これが芸州藩の国論と薩摩藩側は理解した。この点に関するかぎり、薩芸の意見は完全に一致をみている。
　芸州藩がそれほどの覚悟であることを知ったからこそ、一蔵らは「薩藩の見込み、決策の次第」を辻に打ち明けたのであった。
「宮市まで戻りましょう」
植田は街道筋の旅籠の一つに案内した。
　一蔵は、京都で辻と話し合った始末から、「山口表談合之次第、細事」にいたるまで話し、夜半まで「委事を談」じた。
「芸州藩も出兵協定を結ぶつもりでおります」
　植田は藩主浅野長訓から毛利敬親父子に贈る腰刀を携えていた。藩は植田を正使として、全権を託して山口に派遣したのである。
九月二十日。植田は山口で、長州藩との出兵に関する協定を結んだ。ここに薩長芸三藩の出兵協定が成立。

二　三藩行動計画

「公には、藩兵の派遣が止められておう長州藩だが」
　一蔵は植田乙次郎から聞いた話を小松帯刀と西郷吉之助に告げた。薩長、長芸、二つの出兵協定をもとに、三藩の役割を検討していた時である。
「可能にすう条件があうという」
「それは、どのような事情だ」
「八月二十日に、芸州藩使が長州藩処分問題の件で、長州藩代表者の上坂を要求する幕命を、山口政事堂に伝えた」
「代表者とは」
「岩国吉川監物と長州藩家老だ」
「そこで長州藩は、吉川監物は病中を理由に、家老毛利内匠のみを派遣すうことにした」　藩命が出たのは九月十日。
「毛利内匠の護衛として藩兵を同行させる、というものだな」
　小松帯刀の黒眼が素早く動く。
またこの際、芸州藩世子浅野茂勲が芸藩兵を率いて、毛利内匠一行を誘導する。これによって長・芸両藩の率兵同時上坂が、表向きには合法的なものになる。
「三藩の行動計画は、そのような事情も考慮し得るのう」と西郷。
「先ずは、薩藩兵が軍艦二艘を率いて、長州三田尻に集結する」
「日時は」
「九月二十五、六日に」
「次、長州軍は薩藩兵が三田尻に到着すうのを待つ」
「三番目だが、先に到着した薩摩軍艦の一艘が先発して、摂海(大坂)に進む」
　?薩藩軍艦の一艘を、長州藩が借り受けて、兵を運ぶ。
　?三田尻を出航した長藩兵および薩藩兵残りは、御手洗で待つ芸　　
　　藩兵と合流する。
　?薩長芸三藩連合軍は、先発薩軍に一日遅れ、夜中に摂海に着く。
　?三藩兵の大坂着港を見届けた上で、翌日の夜京都で「決策」を決行する。
　?大坂城攻撃は、京都の「一挙」がすんだ時刻を計り、少し遅れて攻め入る。
　?「一挙」の後、島津茂久・浅野長訓両藩主がそれぞれ藩兵五〇
　　〇を引率して上京。
　?この計画に動員される兵力は、?の兵を除き以下の通り。
　　・在京の薩摩藩兵、約一五〇〇
　　・在京の芸藩兵、約五〇〇
　　・鹿児島からの薩藩出兵、予測約九〇〇
　　・長州藩兵、予測約五〇〇
　　・芸州藩兵は?の兵で、約五〇〇
　?「決策」の「一挙」は、九月中を期限として決行する。
　この計画を長州藩は「一挙奪玉」と、いみじくも表現。
「まさに我らの目指すところと同じだ」
「決策」の「一挙」とは、まず京都で決行される「政変」であり、「奪玉」とは無能な朝議や慶喜に取り込まれているような玉（天皇）を、政変決行によって彼らから奪い取ることである。
　在京の薩摩藩兵と芸州藩兵合わせて二〇〇〇が「政変」の実行部隊となる。そして大坂に到着した薩長芸三藩約一八〇〇以上が、大坂城を奪い幕府の根拠を占拠し、「政変」を側面から支援する。
　尚、具体的な動きとしては・・。
「禁裏御所の六門を封鎖し、正義の堂上だけを参内させ、天皇の内意をうけて朝議を開く」と西郷吉之助はいう。
「摂政二条斉敬をはじめとする因循の堂上の参朝は停止すう」
新政府の樹立と慶喜の将軍職罷免が決議され、勅によって、この「政変」の正当性が宣告される。
「これが、我らが描く筋書きだ」
「山内容堂、松平春嶽、伊達宗城様方には、この計画を打ち明けていないが、同意は得られるであろう」
「朝廷・朝政改革の必要を痛感しておられるゆえ」
「四侯会議でも、慶喜が将軍職を辞退するのを望んでおられたと、我等はみておる」
「その点については、長州藩と芸州藩に説明済みだ。詳細にな」
「あえて名目を唱えるならば、禁裏警衛であり天子御守衛だな」
　ここまで用意周到に計画したが、実行はままならなかった。肝心の鹿児島からの出兵が遅れたからである。

三　土佐藩との駆け引き

　ここで土佐藩の動きを記しておく。
　九月二十三日。一蔵が山口から京都に帰着した同じ日、一蔵が到着する以前に、土佐藩福岡藤次が建白書の草稿を、西郷のところに持ってきた。
「土佐藩は明二十四日にでも、老中に差し出すつもりである」
　しかし西郷は、しばらく待ってもらえないかと、応対した。
　西郷が慎重になったのは、建白書の内容と関わりがある。その内容をもう一度確認してみると・・。
　慶喜の将軍職辞退・将軍職廃止に直接触れておらず曖昧にされているが、「王政復古」と天下の大政を議定する機関としての「議政所」の設置を主張していた。
「議政所」の内容が不鮮明であるが、国政運営能力のない朝議を改革した、新しい政府機関を構想したものである。少なくとも、幕府より上位の国家機関として位置づけられるものといえよう。
　従って幕府の覇権は否定され、慶喜がたとえ将軍職のままであっても、「議政所」の一構成員の途が残されるのみである。このように土佐藩建白は、朝政と幕政の同時大改革を構想するものだ。
　しかし、この構想を突き付けられた時、慶喜はどう動くか。
　恐らく幕府の方から先に朝廷に手を出す勢いになるのでは。
　西郷はまずその事を案じた。
　今の時点でまだ薩摩藩の「政変」計画を、慶喜は察知してはいないだろう。しかし慶喜が薩摩藩の動きを牽制し、その動きにあわせて先に朝廷・公家工作に動かれては「政変」がやりにくくなる。極端な事態を想定するなら、慶喜に改めて「庶政を委任する」というような内容の勅命が出されると、「政変」の実行は極めて難しくなるであろう。すなわち薩摩藩の軍略に狂いが生じてしまう。
　そこで西郷は次のように述べた。
　土佐藩が幕府に建白書を差出すのに続いて、薩摩藩も「事を発し」たい。自分たちは来月五日ごろまでに「事を発し」たいと考えていたが、大久保が長州からまだ帰っておらず、計画の実行には未確定の点が残されている。従って、土佐藩が建白を差出すことを決定した場合は、せめてその前日に教えてほしい。連続して「事を発する」のは無理だろうから、止むを得ず自分たちは独自に行う。
　西郷が「政変」の計画について、ある程度打ち明けたのは、薩土盟約の時点で、薩摩藩の構想を承知していたからである。つまり、薩摩藩が武力を背景に、慶喜に将軍職の辞職を迫り、同時に新政府を樹立する構想で、この点に関しては土佐藩建白と同じ趣旨である。が、ここに至って薩土両藩の間の大きな違いが明らかになった。
　土佐藩は幕府・慶喜に働きかけて、武力を発動しないで平和的に、朝政・幕政の改革を実現しようとするものである。
　一方薩摩藩は、幕府・慶喜を相手とせず、武力を背景（この時点ではまだ芸州藩は加わっていない）とした「政変」によって、朝政・幕政の同時改革の実現を意図していた。薩摩藩は平和路線では、朝幕同時の大改革は実地が難しいと判断していることも、大きな相違点だ。
　福岡藤次は当惑の体で帰ったという。
　そこで在京土佐藩重役は時間をかけて議論。焦点は、土佐藩が建白を差し出すと、薩摩藩は引き続いて「事を発し・・兵端を開く」ことがわかったのに、それでも建白を差し出すべきか否かという点であった。
　つまり建白書は山内容堂父子の「御趣意(平和路線)」を貫徹するために差し出すのであるが、引き続いて「政変」を実行することが判明。しかも「政変」は幕府との軍事的対決となりかねない。それでは結果として容堂父子の「御趣意」が「貫徹」しないことになってしまう。
　二十五日。二日前の夜に帰京した一蔵は、芸州藩辻将曹に山口での模様を「委細」話した。
　同じくこの日。寺村左膳に次のような情報が入る。
　山口から帰った大久保の話では「長州の返答ハ曖昧」であること、従って「多分、此度之暴挙ニハ」長州藩は応じないとみられること、などだ。この情報を提供したのは、一蔵から土佐藩出入りを命じられている高崎猪太郎である。
　実は一蔵は小松と西郷のほかは、在京の同藩の者にさえ、用心して山口での会談の詳細を話していない。高崎猪太郎には異なる情報を流したのだ。高崎も自身の役割を自覚して、一蔵から聞いた内容を土佐藩に伝えている。
　二十六日。高崎は再び後藤象二郎のところに出向いて「長談」し、この日でき上がった建白の清書をみた。この報告をうけ、一蔵らは土佐藩の最終意志を確認。
　二十七日。後藤が一蔵のもとに建白差し出しの相談にくる。土佐藩が薩摩藩の同意を得ることに拘っているのは、薩土盟約以来の信義の問題もあろうが、建白を支持し後押ししてくれるのを期待してのことである。薩摩藩側の意向を無視して提出した場合の孤立を懸念したに違いない。
　二十八日。薩摩藩は、土佐藩に建白書を提出しても差支えない旨を告げる方針を決定（正式に伝えたのは十月二日）。
二十九日。一蔵は鹿児島の蓑田伝兵衛宛てに「摂海へ着船、今日ハ今日ハと相待候」と記した。
「予定ではそろそろ薩長芸三藩兵が大坂に到着するはずだしのう」
「政変」の決行は、明日か明後日か、いよいよその日が迫っている。「幕府側が気付いて対策を講じている様子も見えぬし」
「ここまで延期できれば充分だ。これ以上引き延ばさなくともよいだろう」
　準備さえ整えば「政変」を決行する。それが薩摩藩首脳部の立場なのだ。
ところが同じ日に、都合の悪いことが起きた。
「辻将曹がきて申すには」
　小松帯刀のところにきて、芸州藩は出兵を見合わせたいと、広島藩庁から連絡が入ったという。
「植田乙次郎が山口に延期申し入れにいったそうだ」
「言語に絶する次第だ」
　一蔵は憤慨するが、思い直す。
　長州藩は芸州藩に動かされるようなことはあるまい。多少手間取うだろうが。
　広沢真臣に説得され、芸州藩が延期論を撤回したことは、後で知ることに。
しかし計画が狂ったことは確かである。
「いつまでも土佐藩の建白差出しを止めておくわけにもいくまい」
　十月二日。小松帯刀は差支えない旨を伝えた。
　土佐藩側はこれを、高崎猪太郎が西郷と大久保を説得したからと解釈。そして薩摩藩が挙兵を断念したか、少なくとも当分は延期したとみたようだ。ついでこれらのことが、土佐藩から京都芸州藩邸に伝えられ、辻将曹は「京情一変」の状況を、広島藩庁へ書き送った模様。

四　失機改図

　十月三日。老中板倉勝静に土佐藩建白が提出される。
　同じ日。辻将曹の報告が、藩庁に届く。芸州藩はこれを広島滞在中の長州藩蔵元役広沢真臣に伝え、出兵見合わせを申し入れる。
　広沢は前月二十三日に広島派遣を命ぜられ、二十七日に浅野長訓に面謁して、出兵すべきことを論じている。そして翌二十八日には、山口から戻って来た植田乙次郎とも会って説得。芸州藩を出兵論に転じさせ、そのまま広島に滞在していたのである。
「自ら京の実情を確かめた方がよい」
　広沢は判断し、植田乙次郎とともに即日広島を発った（十月六日京都着）。
　同日。長州藩でも大転換が・・。
　鹿児島からの薩藩兵の到着が大幅に遅れていたのである。早ければ九月二十五日頃にも三田尻に到着する約束が、挙兵にたいして藩内に異論があり、出兵が遅れるという事態になっていたのだ。
　しびれをきらした長州藩は、出兵延期と戦略の見直しを決定。
　三藩合従の説、既に天下に流布し、幕も防御の手段十分相整候に相違無之に付、最初彼の意表に出で、一挙奪玉の時期は既に後れたという判断であった（「失機改図」）。
　そこで長州藩庁は、芸州藩と広島滞在の広沢真臣にその旨を伝えるため、福田侠平を広島に派遣。しかし福田が到着したときは、すでに広沢は出発したあとであった。福田はその足で京都へ（九日京都着）。
　四日。品川弥二郎が上京、一蔵宅に現われる。
　六日。一蔵は品川を伴い、馬で洛北岩倉村へ。岩倉具視と中御門経之に会う。薩摩・長州の国情を詳しく話す。そして意見書「王政復古議」に記した岩倉の構想をきいた。
　それは「断然と征夷大将軍職を廃止」して「大政を朝廷に収復」し朝廷が政治の実権を握り、大いに「政体制度」を革新し「皇国の大基礎」を確立することを、非常の英断をもって「朝命を降下」するというものである。この構想は慶喜が大政奉還する以前のものだ。薩摩藩の構想と基本主旨は完全に一致する。
　この日の会合は、岩倉・中御門と大久保による、新政府計画の実行にむけて動き出すことを確認する意味を持っていた。品川はその証人である。
　そして愈々王政維新の時発表されるべき玉松操の起草した勅書を始め、新政府の組織人選等協議を尽す。尚特に、玉松操の考案になる錦旗調製のことを一蔵は依頼される。
　一蔵は隠宅に帰ると直ちに、おゆうに命じた。
　家人用の帯地等注文として大和錦二反ならびに紅白緞子数巻を西陣より取り寄せるよう。
「大事な用事であるゆえ、徳三を供につける」
　頷くおゆうの眼差し奥深くに、緊張が走る。
　こういう時こそ、平常心が肝要。一蔵は「ゐ」で始まる歌を諳んじた。

　　亥にふして寅には起くとゆふ露の
　　　　　　　　　　　　身を徒に　　あらせじがため

　歌の意味は、夜は十時に寝て朝は四時に起きなさい。露のごとくはかない人生を無駄に過ごさないようにと、戒めている。
　今の一蔵にこのような暮らしは無理だが、だからこそ忘れてはならない一首だ。
　六日夜。広沢真臣と植田乙次郎が京都着。石薬師の隠宅にて辻将曹を通してそれぞれもたらされた、広島と京都双方の情報について話し合い、お互いに正しい状況を確認する。「辻将曹が意図して行ったものかどうかは分かりませぬが」
　植田乙次郎は、辻からの情報に振り回されたのは確かだと述べる。
　尚、この日。芸州藩の大政奉還建白が、辻将曹から老中に提出される。また一方で、ようやく鹿児島からの薩藩兵が三田尻に到着したのも六日である。これが一蔵に伝わるのは十二日。
　七日。広沢真臣が辻将曹と会い、明八日に、薩長芸三藩の会議の約束をとりつけた。秘密を要する会議の席を一蔵は、おゆうを通して祇園の一力に設定。今回の出兵計画に関して、三藩の首脳が同席して話し合うのは、実はこれが初めてである。
　八日。朝八時から会議は行われる。
　出席者は、芸州藩辻将曹・植田乙次郎・寺尾生十郎、長州藩広沢真臣・品川弥二郎、そして薩摩藩小松帯刀・西郷吉之助・大久保一蔵が会集。
　三藩の「前議に復す」決議がなされる。
　その要目の第一条には「三藩軍兵大坂着船之一左右次第、朝廷向断然之御尽力、兼而奉願置候事」と記した。
　以前の約束通り「政変」を決行しようというものである。
　それだけではない。
　三藩はついに「政変」に続いて、慶喜・幕府の出方次第では武力討幕の挙に移ることも、具体的な行動目標として掲げるにいたったのである。
　そして武力討幕を貫徹させる重要な手立てとして、岩倉具視から依頼された錦旗調製が議題に。
　これについては長州藩が調整することに定め、品川弥二郎自らが、おゆうが購入してきた帯地を携帯して帰国。尚、山口において、玉松の考案と大江匡房の皇旗考とを折衷して調製。でき上がったものは、錦旗各二旒日月章入軍旗各二千旒で、各半数に分け、半数は京都二本松藩邸に密蔵し、他は山口に留め置いた。
三藩決議をもって大久保一蔵、広沢真臣、植田乙次郎が、中御門経之邸に待つ中山忠能の許に行き、「三藩之国情決定之次第」を言上し、「政変」計画を打ち明ける。
　中山忠能と中御門経之は「別而御安心」ということであったが、中山忠能は「是非一藩ニ而も君公御上京」と、三藩のうちの一藩でもいいから、藩主が上京するよう、繰り返し要求した。
　家臣だけの企てでは、全幅の信用を置くことができないと、いうものであろう。久光は九月十五日に大坂を発って、鹿児島に帰っていたので、藩主に準じる人物でさえ、一人も京都にはおらず、中山忠能が不安に思うのは当然であった。

五　秘物拝戴

　同日、八日。小松、西郷、大久保三人の連名による願書が提出される。
「王政恢復の赤心を貫徹し、干戈を以て其罪を討し、奸兇を掃攘して、国家長久の基を開」くために、「義挙」を決意したので「相当の宣旨」を降下されたいとする内容で、中山忠能、正親町三条実愛、中御門経之宛てに出された。
「干戈」を用いて幕府の「罪を討」のであるから、明らかに武力に訴えた討幕である。言い換えれば、慶喜・幕府の罪を討ち、会津などの「奸兇」を打倒する、という意味になる。薩摩藩首脳部は、「討幕」の意志があることを、ここに明言したのであった。
　ただし、「政変」と「討幕」を同時あるいは連続して、計画的に決行するわけではない。「政変」が計画通りに運ばず、幕府が反撃に出た場合に「討幕」となるのである。その時に「相当の宣旨」が必要となる。それがなくては薩長芸三藩と幕府との間での私闘・私戦になってしまう。薩長芸三藩の行動が正義であることを証明する「相当の宣旨」なのだ。
　また状況によっては、天皇の動座もありうる。この場合にも「宣旨」が必要となる。これらの行動も「宣旨」によって正当であるとされることで「討幕」を支持する勢力を広げることが可能になる。
「これだけの理由から、なんとしても宣旨は降下されたいと願い出ねば」
「藩主茂久の挙兵出馬・上京に藩論を一つにまとめるためにも」
　九日。一蔵は薩長芸三藩決議を岩倉具視に伝える。
　この日の夜。長州藩士福田侠平が到着。
「薩藩兵の三田尻到着が遅れておる。そのため長州藩は戦略見直しと出兵を延期した」
「それはまずい。昨夜、広沢殿は京都を出発されたばかりだ」
　広沢真臣を急遽大坂から呼び戻すことに。
　十日夜半。広沢が戻り、福田を交えて一蔵らは熟談。
　一蔵は、詳しい事情は分からぬまま、薩藩の出兵が遅れたことを、まず謝り、長州藩の「失機改図」を承認。引き続き、薩長芸三藩決議を再確認しあった。
　その日の日記に一蔵は綴る。
　いますぐ「政変」を決行することは不可能になったが、機をみて決行する。しかも「討幕」をも覚悟したからには、改めて兵気に弾みをつけ、お互いに士気を高めて結束を強固にしなくてはならない。
　十一日。小松、西郷、一蔵は、早朝から話し合う。
「戦略の練り直しをせねばなるまい」
　小松帯刀の声音には覚悟が漂う。
　長州藩の「失機改図」が伝えられ、新たな運動方針が決議された十日以前と以後では、あまりにも状況が違ってきた。それを踏まえての小松の発言である。
　三人は想定しうるあらゆる事態について可能な限り対策を論じ合った。
　話は戻るが、九月十九日に薩長出兵協定が結ばれ、報告と出兵準備のために、大山格之助が山口を発って鹿児島に向かった。
　しかし、早ければ二十五日頃には、薩摩藩兵が三田尻に到着するという、大久保一蔵の約束は実現しなかった。鹿児島では大久保らの予測に反して、出兵にたいする慎重論が強かったのである。
　ただし遅れはしたが出兵は実現したことを後になって知るが。行き違いのないよう、一蔵は手を打つ。先発した薩藩兵が到着したら、そのまま滞留するよう命ずるために、村田新八を派遣した。
　島津久寿（主殿）が一大隊の兵を率いて、鹿児島を発ったのが十月七日である（九日、三田尻着）。その際に、久光・茂久藩主父子の論達が藩内に布達された。
・・於京都（薩藩が）無名之干戈ヲ以、討幕之挙動相催候義ト、心得違議論区々、末々ニ至テハ有之候哉ニ候・・
　九月三日の島津珍彦の出兵に続いての一大隊出兵に、たとえ名義・名分がなくとも、いよいよ京都で武力「討幕」にむけて兵を動かすのだ、というような噂が藩内に広がった。「無名之干戈」という表現には「討幕」行動にたいする不安と批判の声が感じられる。ともあれこの時点では、支持する側と反対する立場とで議論が分かれ、薩摩藩の藩論は一致していなかった。
　論達はそうした「末々」の噂を、「心得違」であり「意外千万」であると強く打ち消し、「討幕」のための出兵ではなく、名目はあくまでも禁闕御守衛一筋であると述べたものである。
　虚偽をもって言い繕っているのではない。朝廷守衛のためにはいつでも出兵・上京するというのが、先代藩主斉彬の遺志であり、薩摩藩の藩是であった。
　しかし小松ら在京首脳部は、藩主の出馬（しかも初めての上京である）と大軍の動員を実現するためには、とくに藩上層部の慎重派を説得する、藩是に加える強い重みのある理由が必要と判断。十一日に、改めて「相当之宣旨」を求めることになったのである。
　十三日。大久保一蔵と広沢真臣は、岩倉具視の丸太町本邸に呼ばれる。そこで岩倉は広沢に、長州藩主父子を赦免し官位を復旧するので、上京するようにとの沙汰書を授けた。もちろん朝廷が発行した正規のものではない。そして肝要の品は明日正親町三条実愛から渡される旨を伝えた。その日の日記に一蔵は「秘物」と記す。
　十四日、大久保と広沢は、正親町三条実愛邸で、薩摩藩島津父子、長州藩毛利父子それぞれに宛てた「秘物」を受け取った。
　これが討幕の密勅である。一蔵は日記に「秘物拝戴」と記す。
　尚この日。慶喜が大政奉還の上表を朝廷に提出。
　招集に応じて在京の四〇藩重臣が二条城大広間二の間に参集した。
薩摩藩からは小松帯刀が新納嘉藤次を伴って登城。しかし慶喜はすでに大政奉還を決断済みであり、それを各藩重役に公然と表明する儀式であったといえよう。
　八つ(二時)ごろ、大広間に慶喜が臨席。老中板倉勝静・大目付戸川安愛らが列席して諮問案(上奏文と同文)が回覧され、意見のある者は申上げるようにと伝えられる。その場では列席の会津・桑名藩からも特段の発言はなかった。
　再び意見のあるものは居残るようにとのことで、残ったのは六名。薩摩藩小松帯刀、芸州藩辻将曹、土佐藩後藤象二郎と福岡藤次、宇和島藩都筑荘蔵、備前藩牧野権六郎であった。
　考えがあるなら腹蔵なく将軍に申上げるようと板倉勝静が促す。
そうはいっても、慶喜はすでに意思が明確なので、ほとんどが賛意を述べる短い発言であった。が、小松帯刀はここで、西郷、大久保と一昨日に熟談した対応の一つを、速やかに進めていく。
　将軍職返上については、朝廷で御内議遊ばされただけでは、とても天下のことを遊ばすというわけにはまいらぬから、衆職を召されて、とくと存意をお尋ねがよろしゅうござろう。それまでのところは、外国の事、ならびに国家の大事件、この二つは朝廷で御評議を遊ばすがよい。その他のものは、前どおりお任せになっている方がよろしゅうござろう。　小松帯刀はこのように言上。そして慶喜が退席後に控の間で板倉勝静に言った。
「今日は誠にどうも非常な御英断で有難い、ただ今からすぐに御参内、その事を申上げられるようにしたい」
　慶喜の意思は明白であっても、すぐに順調に上奏されなかったり、上奏されても朝議が停滞したりこれを却下したりすると、事態は逆戻りしてしまう。小松帯刀は、大政奉還勅許後の事態処理の展望をも具体的に提示しつつ、奉還の早期上奏・早期勅許を実現しようとしたのだ。

六　茂久上京決定

「秘物」すなわち討幕密勅は「詔書」として出されている。伝聞形の文体で書かれている綸旨や宣旨とは異なり、詔書は天皇が直接にことを命ずる文体で書かれており、勅書のなかでも最も価値が高く重い文書である。だから大久保一蔵は、最大級の謙譲語である拝戴の語を用いて、受け取ったのだ。
　しかし一蔵は「詔書」とは書かず、毛利父子の官位復旧宣旨と同じ扱いの「秘物」と記した。
　正式な手続きをへて出された勅であっても、それが正義の勅でなければ、勅として認めない。「非義の勅命」は本当の勅命ではないというのが、大久保・薩摩藩の立場であった。
　一方、「秘物」は正式な手続きで出されたものでない、偽勅に近いものであることを大久保は十分に承知している。しかし「秘物」は正義のものであるから勅命であると認めるというのが、大久保・薩摩藩の立場である。偽勅といえども信ずるべき正義の勅なのだ。　また、この「秘物」は広く藩内に公開する必要はない。久光と茂久および藩庁上層部の一部にみせて説明し、彼らの決断を促す、そのためのものとして要請されたものであった。だから密勅でかまわない。
　密勅は「賊臣慶喜」を「殄戮（てんりく・ころしつくす）」せよ、それが「朕の願」であるという文面である。さらに会津藩主松平容保と桑名藩主松平定敬を「幕賊」を助けた罪によりすみやかに「誅戮」すべしとする文面の沙汰書が添えられていた。「戮」とは厳しく過激な文言である。
　この二通は、その文面から、天皇が武力による討幕を、薩摩藩と長州藩に命じたもの、言い換えれば薩長両藩が「討幕」に立ちあがる際に、名義・名分を与えるものである。
　十九日。小松、西郷、大久保は密勅を携え大坂から芸州藩艦に乗船。藩論を一つにまとめて藩主茂久の、挙兵出馬をうながすという重大な仕事である。元治国是会議以降、小松、西郷、大久保の三者は、少なくともその誰かが京都に滞在することになっていたが、今回は三人がそろって帰国せねばならぬ重大事なのだ。これに広沢も同行。
　二十一日。夜、三田尻着。
　二十二日。小松と西郷は広沢とともに山口へ行き、藩主父子に会った。大久保は風邪のため三田尻に留まる。
　二十三日。夜、三人は三田尻出帆。
　二十六日。鹿児島着。すぐに登城して、藩主茂久と久光に「逐一言上」。
　二十七日。重臣一同による「衆議」が行われる。
　二十八日。久光と茂久に衆議の結果を報告。
　二十九日。「大守様御上京決定」となる。
　茂久の挙兵出馬は討幕を覚悟したものとなった。覚悟というのは、相手次第であるということで、すなわち討幕を直接的な目的とした出馬ではないという意味である。
　十一月一日。茂久の親書が家老に与えられる。そこでは「断然御変革」に死力を尽くし「奉安宸襟」ために上京するのだと述べられていた。
　同月七日。この親書が、家老名で家中に布達される。すなわち討幕については一言も触れることなく、言外に出兵上京は「政変（御変革）」のためであり、討幕を目的としたものではないことを伝えていた。
　

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