2014年7月20日 6時27分 |
永遠のナンバー2『後藤田正晴 男の美学』 第7章 日本のジョセフ・フーシェ ? |
しまった 三木武夫元首相の秘書官を務めた國弘正雄前参議院議員は、第一次阿波戦争と呼ばれた三木・後藤田戦争以来、後藤田を敵視してきた。しかし、ここ三、四年は、後藤田に対する評価が、随分変わってきている。 「あの時ぼくは若気の至り、後藤田さん自身は、つまりバッジをつけなければならないという焦りがあった。あの人は、参議院議員のバッジをつけるべき人ではなくて、衆議院議員のバッジをつけるべき人だった。周りも含めてご本人も焦り、参議院選挙を戦って史上最大の違反件数を出した。ご本人も後で、しまったと思われたようです」 |
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2014年7月19日 2時28分 |
永遠のナンバー2『後藤田正晴 男の美学』 第7章 日本のジョセフ・フーシェ ? |
第7章 日本のジョセフ・フーシェ 参議院議員選挙に出馬する 後藤田は、近代警察の祖と言われるフランス革命時代のジョセフ・フーシェをいやがうえにも思い出させる。 フランスの治安を掌握していたジョセフ・フーシェは、革命の火をつけたジャコバン党の国会議員となり、王党派を大勢、銃殺する弾を節約するため、多数の王党派を谷の向こうに並べて、大砲をぶっ放し、大量虐殺してその功労によって公安委員長に就任したかと思うと、ナポレオン政権でも、公安委員長として辣腕ぶりを示し、その次に復活した王党派政権では、貴族に列せられるなど革命期を最後まで生き延びて立身出世をきわめた怪人物だった。 |
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2014年7月18日 6時31分 |
永遠のナンバー2『後藤田正晴 男の美学』 第6章 警察庁長官 ? |
任せる ところで、自民党組織広報本部長である亀井静香衆議院議員(前運輸相)は、後藤田が警察庁長官だったときに、調査官を務めており、浅間山荘事件のときは、警官隊に加わっていたのである。 |
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2014年7月17日 3時59分 |
永遠のナンバー2『後藤田正晴 男の美学』 第6章 警察庁長官 ? |
野中本部長を輔けて事案の処理に当たれ 昭和四十七年二月十九日、長野県軽井沢で、連合赤軍メンバーが、河合楽器浅間山荘の管理人・牟田郁男さん(当時・四七)の妻・泰子さんを人質に篭城した、いわゆる「浅間山荘事件」が起きた。このとき、後藤田は、警察当局の最高責任者である警察庁長官として、指揮を取った。丸山は、警備局参事官として仕えた。 |
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2014年7月14日 3時55分 |
永遠のナンバー2『後藤田正晴 男の美学』 第5章 警備局長 ? |
警察庁ではものを創り出す秀才が必要だ。若い者はそういう男になれ 歴代の警察庁長官は、大低は県警本部長を経験している。ところが、後藤田は昭和四十四年八月、県警本部長を経験しないで長官に就任した。その意味でも、エリート中のエリートである。後藤田は、相川にこんな話もしたことがある。 |
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