寛容な保守? | |
[日本の政治] | |
2017年10月1日 2時35分の記事 | |
小池新党について考えて見ましょう。
小池新党「希望の党」が旗揚げをした9月27日、同党の基本方針として寛容な改革保守ということを打ち出しています。しかし、そもそも保守主義とは寛容を最大の本質とするものです。したがって、そもそも保守主義に寛容という言葉をつける必要はないのです。このことからしてまず保守ではない臭いがします。よくわかっていない。 世の中には色々な考え方があり、千差万別、そこに多様性とダイナミズムがあるから社会の生命力も生まれ、未来が開けていきます。未来がつくられていくためにはその社会の生命力を維持するしかありませんが、そのためには、平和と人々の安寧をもって政治がその多様性を維持・確保して、包括して行くしかありません。これが保守思想の根幹です。社会と人々の生活を安定的にし、社会や人々のダイナミズムと生命力を発揮させるのが保守です。千差万別は社会における宝なのです。 したがって、千差万別な考え方のある社会全体を見渡して政治を行っていくのが保守であり、その反対は革命主義です。だから革命主義は排他的で考え方の多様性を認めません。政治思想の実現に邪魔だから、反対の者は存在を認めないわけです。これは左派思想にもありますが、同時に右翼思想にも当てはまるのです。安倍首相のような強烈な復古主義は、当然のごとく左派、リベラルなどを排除していますが、それは保守ではなく右翼革命思想であって、それは戦前にも同じように存在し、国を滅ぼしました。革命主義は人々の考えを必ず単一にしますので、必然、社会は衰退、亡びます。 その対極にあるのが保守主義なのです。保守主義は寛容で千差万別を包括できる広い視野を持たなければできませんし、だからこそ為政者の思想になり得るのです。保守主義とは復古主義のような現在と現実を無視した偏ったものでは毛頭ありません。同時に社会が改革・発展していくこともまた内包しているのですが、そのやり方が革命主義者の排他的とは違うと言うだけです。 もちろん、保守とはタカ派のことではありません。タカ派は保守ではありません。タカ派はタカ派でしかないのです。かつてソ連などの社会主義国・共産主義国にもタカ派は存在しました。彼らの思想は社会主義・共産主義であり、そのことを考えるとタカ派というのは政治思想とは関係のない、別のものなのです。 政治家で安全保障政策を前面にだすものは、基本的にその政治能力を疑った方が良いと考えます。なぜなら政治の原理と軍事の原理は違うからです。政治家なのに安全保障を前面に出す政治家はそのことがわかっていません。要するに、そういう政治家は政治の原理を知らないと言うことを自ら吐露しているのです。だからそういう主張をするのです。 彼らは、孫子の兵法などを読んでいますと高らかに言うかもしれませんが、孫子の作者とされる孫武は最後には敗軍の将となったと言われており(行方知らずになっている)、孫武を抱えて急成長した呉の歴史は130年あまりでした。孫子は参考になることは極めて多く、現代においてもその有効性はもちろんありますが、ポイントはそれが政治論ではないと言うことです。そこを見誤ると大きな失敗をすることになりますが、大抵のタカ派はそのことがわかっていません。論語読みの論語知らずではありませんが、孫子読みの孫子知らずということなのです。 ですので、安全保障を一番の前面に出す政治家は、このことがわかっていないので、全く疑いなく当たり前のようにそう主張するのです。それは政治に対する思慮がなく政治の原理がわかっていないと言うことですし、必然、為政者として政治を失敗させます。安全保障を前面に出す政治家の考え方は、看板が変ろうが、どこに行こうが同じ問題を同じように起こします。それは、政治家としてそもそも欠陥があるからです。政治思想としては非常に偏っているもので、それは必然、安全保障環境の現場をも危険にさらします。日本は、このことを70余年前に一度経験済みで亡びています。軍国主義とはそういうものなのです。 また、小池知事はしがらみ云々とことある毎に言っているように見えます。このしがらみとう言葉は、20年前なら意味があったように思いますが、今や色あせている感があります。今、国民が求めている政治家像は、国民に嘘をつかず、国民のために政治をやり、国民に対してとにかく誠実であるというものでしょう。そこに安心感があるわけです。 しがらみと言えば、小池知事が連携を表明した大阪府知事は、森友学園問題を見れば、明らかにしがらみだらけであったように思うのは私だけではないでしょう。 また小池新党では踏み絵と言うことが言われています。踏み絵をさせるほどそんなにご立派なのだろうかと思ってしまいます。現状は、安倍自民党の失政によって風を受けているだけであって、本当の意味での実力は全く見えてきませんし、結局、民進党から先んじて離党した者がふんぞり返って踏み絵を踏ませているように映ります。単なる権力志向のようにしか思えないのは私だけではないでしょう。驕れるもの久しからずです。このまま行くと先は短いと考えます。 いずれにせよ、随分と“不寛容”ではないかと思ってしまいます。現状、希望の党には希望は見いだせないというところではないかと考えます。 一方、安倍自民党を見れば、中庸を逸して思想が偏り、政治家の頭数があっても、国民のためにものいわぬ保身が目につき、タカ派、復古主義を言う者だけが目立っています。そして、国民に平気で嘘をついていると多くの人に思われる首相をはじめ大臣や政治家の発言が目につきます。今の新党ブームはそこに源泉があります。このような勢力を右翼というのならそれはそれで良いでしょうが、それは保守とは言わないのです。 政治家が国民に嘘をつかないというのは、嘘が同胞との紐帯、絆を壊すものだからです。それで政治が成立するはずがありません。そのような紐帯を壊しておいて、それで愛国と言って何になるのか。単なる欺瞞でしかありません。それで保守と言えるはずはありません。 国民新党の代表であった亀井静香さんは、ご一緒していた頃、よく昔の自民党は良かった、色々な考えがあって、喧々諤々やっていたと言っていました。それは保守と呼べるものです。そして政治がそういうものを持っていたから、社会もある程度上手くいっていたと考えます。 小池新党は、そういう器の大きさがなければ、いずれ急速に基盤を崩すことになります。そして、先のフランス大統領選挙の時のように政治の選択肢がないという声が国民の間だからわき上がってくるでしょう。そういう状況で政権についたマクロン氏は、今や、その支持を急速に失っています。日本に右翼政党が二つ必要とはどうしても思えません。現状、日本の政治においてリベラルの趨勢もポイントになっていますが、明らかに保守も実のところなくなっているのです。 | |
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