主体性の問題――国民を守るという意志がない | |
[日本の政治] | |
2016年5月23日 23時50分の記事 | |
翁長沖縄県知事が安倍首相と沖縄女性遺棄事件を巡り首相官邸で会談したことが報じられています。この会談で翁長知事は「事件は基地あるゆえの犯罪であり、大きな怒りと悲しみを禁じ得ない」(2016年5月23日 沖縄タイムス) と憤りを示しています。一方で安倍首相も「あってはならないものであり、身勝手で卑劣極まりない犯罪だ。強い憤りを覚える」(2016年5月23日 東京新聞)と憤りを示しています。今回の犯罪は卑劣きわまりないことですから当然です。 「翁長知事、オバマ氏との面談要請 沖縄女性遺棄事件で首相と会談」(2016年5月23日 東京新聞) 「翁長知事『オバマ大統領と話す機会を』 安倍首相に申し入れ」(2016年5月23日 沖縄タイムス)
しかし、会談後、翁長知事は「安倍内閣はできることはすべてやるというが、できないことはすべてやらないという意味合いでしか聞こえない」(2016年5月23日 東京新聞)と政権への不信に言及しています。これまで沖縄が犠牲になってきて、その度に「綱紀粛正」、「再発防止」ということが言われてきても状況が変わりませんから、これまでと同じでは駄目だと言うことでしょう。言い換えれば、できないと考えていることもあえてしなければ状況が変わらないと翁長知事が考え、そして知事がこれまで行動していることがこのコメントからよくわかります。 一方で、安倍首相は、「オバマ氏に厳正な対処を求めていきたい」(2016年5月23日 東京新聞)と考えを表明し、参議院の決算委員会でも(米国に)「実効性ある再発防止策求める」(2016年5月23日 テレビ朝日)と述べています。ただ、これらの首相のコメントの本質は、今回の事件をはじめとする沖縄問題について日本政府の対応が焦点となっていた状況から、ボールを米国に投げたに過ぎないというものと考えます。日本政府として事態の改善のために必要な施策をタブーなくやる意志があるとは表明していないと言うことと考えます。それなら翁長知事は、首相との会談で不信感を募らせるのは当然でしょう。 だからこそ、そのような状況では、知事は外交的な窓口にならないとしても「県民の安心安全を守るため、ぜひオバマ氏と直接話をさせていただきたい」(2016年5月23日 東京新聞)と直談判を求めるわけです。5月半ばに翁長知事が米国へ飛んだのも同じ想いからなのは言うまでもないことでしょう。できないこと、不可能であるとわかっていても責任をもつ人々が直面する事態の改善のために動く姿勢がそこにあると考えます。 この状況を素直に見れば、既にどちらが本当の意味で日本の首相かわからないという状況になっているものと考えます。言い換えれば、どちらが日本国民のために責任を感じ、身を挺して動いているかはっきりとわかることであると考えます。無理だとわかっていても人々のためにやるというリーダーと、無理なことはせず、ボール(責任)を米国に投げてしまい、自らが実現すべき状況をつくる構想がないリーダーという対比に明らかになっているものと考えます。そして、間違いなく翁長知事の方が、日本の国民のために動いていることは明らかです。 そのような首相が血道を上げるのが憲法改正なのですが、今回の首相の対応を見ていても、この改正、本当に何のためにやるのかわからないものになっているものと考えます。国民不在の憲法改正というのが本当のところであろうと考えます。国民主権の現憲法をないがしろにしているのですから当然ではあります。同じように自民党の憲法草案は憲法学者などからの評判は非常に悪いですが、上記のように安倍首相の言動を見れば、その憲法草案なるものの本質がよくわかります。 そんな憲法改正なら全くやらない方が良いのは言うまでもないことです。また、国のリーダーとしてもそんなことをやる資格はそもそもないものと考えます。 そこには国民を守るという姿勢がなく主体性がないものと考えます。それが、今回の一件で非常に明白になったものと考えます。 | |
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